後醍醐天皇が亡くなり、新田義貞、楠木正面など南朝の名将が戦死してから南北朝が統一されるまでには少し時間がかかります。
足利尊氏・直義兄弟が南朝に通じたり、楠木正成の子どもの正儀が足利方についたり、すぐ南朝に戻ったり・・・。
軍事的、政治的理由などで、南北朝の行き来があります。
そうこうしているうちに時は流れて、室町幕府三代目将軍、足利義満の時代になると幕府は安定。
幕府と対立する豪族を一つ一つ平定していきます。
一方、南朝は幕府反対派の豪族が平定されていき弱体化。
有力な豪族で残っているのは楠木一族の正勝のみとなります。
正勝は足利義満の降伏勧告を拒絶し、なんとか頑張りますが、千早城が陥落すると降伏を受け入れます。
義満にる南北朝統一
義満が出した南北朝統一の主な条件は3つ。
・南朝の持っている三種の神器を北朝に与えること
・皇位には持明院統(北朝)と大覚寺統(南朝)が交互につくこと
・領地は鎌倉幕府の時代に戻すこと
つまり、できるだけ平等に統合しようという計らいがありました。
しかし、南朝側は行列を仕立てて京都へ帰ってきます。
敗けた側が堂々と京都に戻ってくることに足利義満は激怒。
南朝側も「われわれは降参するのではない」と憤慨しますが、騙されたと気づいたときには手遅れでした。
もともと三種の神器を渡すのは「国譲り」という儀式によるという約束は果たされず、神器が戻ってきたという形をとります。
つまり、南朝という国の基盤を北朝に譲ったというのではなく、京都からなくなっていた神器がもとの場所に収まったという形になり、南朝の存在自体を否定されたのです。
こうして、紆余曲折ありながらも57年目でようやく南北朝に分かれた朝廷が一つに戻りました。
ちなみに、南朝の後亀山天皇は神器を北朝の後小松天皇に譲ってからは身分が無くなったうえ、講和条約に合った領土はもらえず、生活に困窮するようになります。
そのため後亀山天皇は奈良に逃れ挙兵。
幕府に旧領を与えるという条件を出させますが、その約束は守られず、南朝系は完全に途絶えてしまいます。