承久の乱により、天皇の皇位継承も武士に左右されるようになり、当時の貴族たちの中には、世も末だと考える人も少なくありませんでした。
そんな中、現在のモンゴル・中国あたりに築かれた国、元が2度にわたって攻めてきます。
これが元寇です。
1268年、ジンギスカンの孫の世祖クビライ・カンが朝鮮を通じて国書を送ってきました。
朝廷は返事を送ろうとしますが、当時政権を握っていた北条時宗はそれを拒否。
朝鮮の使者を追い返してしまいます。
理由は内容が無礼で脅迫的だったためです。
元軍襲来。神風に救われた日本
北条時宗が使者を追い返したことによって、クビライ・カンは日本攻撃を命じます。
こうして、1274年に1度目の元寇「文永の役」がはじまります。
元軍はおよそ4万人。
対馬・壱岐を侵略し島民を斬殺すると、次に博多湾から箱崎付近に上陸。
九州にいた5千人の日本軍は、これを迎え撃ちます。
元軍は宋や朝鮮で敵なし。
日本軍もすぐに屈服すると考えていました。
しかし、九州で日本軍の強い抵抗にあって驚きます。
逆に日本軍も初めての外国との戦いに困惑。
集団戦法や火器の使用に苦戦します。
そんな中、博多正面の指揮官の息子、少弐景資(しょうにかげすけ)が敵将の劉復享を矢で射落とします。
これにより、元軍は追撃をあきらめて船に引き上げます。
元軍が船に戻った日の夜。
いきなり嵐が吹き荒れます。
これにより多くの船が沈没。
元軍は暴風雨の中を撤退していきました。
苦戦を強いられていた日本軍にとっては、まさに神風でした。
北条家の功績と武士の不満
一度目の戦いが終わると、北条時宗は次に襲撃された時に備えて博多の守りを固めます。
御家人の持っている土地一反につき石1つという割り当てで海岸に石垣を築かせ、防壁を作りました。
クビライ・カンは数年間準備した後、1281年に十数万の大軍を博多湾に派遣。
2ヶ月にわたって沿岸各地で激しい戦いが展開されます。
これが、2度目の元寇、「弘安の役」です。
堅固な海岸防備と、敵船に切り込む攻撃で元軍は優勢ながらも海上に長期間の停泊を余儀なくされます。
すると、またも暴風雨が発生。
海上の元軍は全滅します。
十数万の元軍のうち帰国できたのは2割にも満たなかったといいます。
今回の戦いでは2度にわたる神風により、日本軍が勝利しました。
2度目の元寇では、夏から秋にかけてずっと博多湾で戦っていたので、一度くらい台風に襲われるのは当たり前ですが、当時の亀山上皇はそのように考えませんでした。
自分が国難打開の祈祷を命じ、自身も伊勢神宮に参拝したため神風が吹いたのだと思い込みます。
こうして、神風ばかりが目立ち、実際に戦った武士たちのことはすっかり忘れられてしまいました。
実際、北条時宗の功績に対する朝廷の評価も異常に低く、位が一つ上がった程度でした。
元軍襲来に対応できたのは、北条義時以来、北条家が倹約に努め財産を蓄え、備えを怠らなかったためなのに・・・。
北条家が貯めていた財産はこの戦いでなくなり、鎌倉幕府の根底が揺らいできます。
また、今回の戦いでは新たな土地を得ることができなかったため、私財を使って国を守った武士たちにも恩賞がありませんでした。
こうして、鎌倉幕府への不満が溜まってしまいます。