承久の乱は、鎌倉幕府に対して不満を抱いていた後鳥羽上皇が幕府討伐の兵をあげるが敗れてしまう戦い。
この戦いで国の体質に変化があらわれます。
国の体質はそれ以前に二回変化しています。
一回目は、第三十一代の用明天皇が仏教を使いはじめたときです。
それまでの天皇は日本の神をまつる代表という立場でしたが、仏教という新しい宗教も受け入れて、国民の精神が大きく変わります。
二回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたとき。
宮廷と関係なく天下を武力で征服して、全国を支配するために守護・地頭を置いたため、土地所有者の任命権が幕府に移り、宮廷には実質上の支配権がなくなります。
皇位継承者を幕府が管理しはじめる
そして、承久の乱では三回目の変化が起こります。
北条泰時が承久の乱を制圧すると、倒幕に参加した兵や、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇を島流しにします。
順徳上皇の子で4歳だった仲恭天皇はわずか70日で天皇の座を下ろされ、幕府が後堀河天皇を後継者にします。
ここから、皇位継承を幕府が管理することになります。
今まで、皇位継承は太政大臣など位の高い公家が選ぶというしきたりがありました。
しかし、北条氏の身分は地方派遣軍司令官のさらに下。
そんな身分の低いものが、天皇の皇位継承を決めることになりました。
しかも、公家が公務員とすると幕府は民間みたいなものなので、北条氏が天皇を決めるということは民間の組織が天皇を決めるというようなものだったのです。
ちなみに、四回目の変化は明治憲法の発布。
五回目は第二次世界大戦敗戦後の日本国憲法の制定です。
いずれにしても、国の体質は変わりつつ断絶せずに今日まで続いていることは世界的に見てとても凄いことです。