平安時代|11世紀はじめ 藤原氏の栄華

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道鏡を寵愛した孝謙天皇は生涯独身で、適当な跡継ぎもいませんでした。

そのため、孝謙天皇が亡くなると光仁天皇が12歳で皇位につきます。

次の桓武天皇の時代になると、長岡京に移り、その後平安京に移ってようやく平和が訪れます。

 

平和になると再び藤原氏の時代に。

藤原氏は結婚政策によって権力を握ります。

先祖の藤原不比等を手本にし、皇位に野心を抱かず、娘をどんどん天皇のそばに近づけます。

皇后や中宮には藤原氏ではない女性を見つけるのが難しいほど、藤原氏の女性が進出。

天皇のお手のつく女性はすべて藤原氏につながるとまで言われました。

藤原氏の最盛期

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藤原不比等にも劣らない濃密な血縁関係を皇室に築き、藤原氏の最盛期を作ったのが、藤原道長でした。

長女の彰子は一条天皇に嫁ぎ、後一条天皇と後朱雀天皇を生みます。

二女の妍子は三条天皇に嫁ぎます。

三女の威子は後一条天皇に嫁ぎ、別の娘の嬉子は後朱雀天皇とのあいだに後冷泉天皇を生みました。

道長から見れば、後一条天皇と後朱雀天皇は孫、後冷泉天皇は曾孫ということになり、天皇三代を孫、曾孫で独占しました。

このような状況で、道長は次のような歌を詠みます。

 

此の世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば

【意味】
この世の中は自分にとって全てが満足にそろっていて、自分の世のように感じる。
満月の欠けるところのないように、叶わないものなんてない。

 

それなら、いっそ自分が皇位につけばいいのでは?と思う人もいると思います。

他の国なら間違いなく王位を奪うところだとも思います。

しかし、藤原氏は自分が皇位につこうとはしませんでした。

なぜなら、自分たち一族が神話時代から皇室に仕えるものであるという意識があったからです。

この慎みと節度があったから、栄華を極めながらも、現代まで滅びずに続いているのでしょう。

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