平安時代|1156年 保元の乱

第72代白河天皇は法王になってから40年ほどのあいだに・・・。

第73代堀川天皇第74代鳥羽天皇第75代崇徳天皇の三代の天皇が即位します。

その次の第76代天皇には崇徳天皇の子どもがなるべきところでしたが、ここに少し複雑な事情があります。

祖父の子供が自分の子供??

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鳥羽天皇にとって崇徳天皇は、自分の后である藤原璋子(たまこ)に実の祖父である白河法皇が産ませた子どもでした。

なので、鳥羽天皇の子どもでありながら祖父の息子という関係だったのです。

 

白河法皇が亡くなり実権が鳥羽上皇に移ると、藤原得子(なりこ)に産ませた躰仁親王(なりひとしんのう)を天皇にします。

躰仁親王は近衛天皇となりますが、17歳で亡くなってします。

すると、鳥羽上皇は次の天皇に自分と璋子の間に生まれた後白河天皇を即位させます。

さらに、そのあとは後白河天皇の長男、二条天皇が皇位に!!

 

本来、皇位継承の順位でいえばトップだった崇徳天皇の子どもは、鳥羽上皇に無視され続けたのです。

このできごとに強い不満と恨みを抱いた崇徳上皇は、法王となっていた鳥羽院が亡くなると一週間もしないうちに後白河天皇に兵をあげます。

こうして、崇徳上皇と後白河天皇の間で保元の乱と呼ばれる戦が起こります。

 

崇徳上皇の挙兵に、鳥羽法皇から冷遇されていた藤原頼長が応じます。

さらに、この戦いでは、崇徳上皇も後白河天皇も武士の力を借ります。

武士の中には源義朝や平清盛もいて、両者ともに後白河天皇に味方しました。

これに対して、崇徳上皇・藤原頼長側には源為義、源為朝、平忠正が味方します。

 

この戦いは、後白河天皇の勝利で幕を閉じ、負けた崇徳上皇は捕えられ讃岐に流されてしまいます。

平治の乱で平家が力をつける

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8年後。

崇徳上皇の呪いが現れたかのように、都では再び争いが起きます。

この争いが平治の乱

源義朝と平清盛が戦い、平家が勝利します。

源氏は敗走する中で次々と打ち取られ、当時13歳だった源頼朝も平家に捕えられてしまいます。

しかし、平清盛の義母、池禅尼(いけのぜんに)が命だけは助けてあげるように懇願。

そこで、源頼朝は伊豆に流され、そこで北条政子を妻にもらい、実家の北条氏の庇護を受けることになります。

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