710年に藤原京から平城京に都が移り、724年に聖武天皇が即位します。
しかし、聖武天皇は仏事に専念することを望んで、娘の孝謙天皇にまかせて隠居してしまいます。
聖武天皇は日本各国に七重の塔を持つ国分寺と国分尼寺を建て、かつ東大寺を建造するという大事業を行いました。
世界的最大の木造建築
そもそも、聖武天皇が在位していた八世紀前半に建築や彫刻の美を輝かせていたのはサラセン国のバグダード、インドのカノージ、唐の長安でした。
そんな時代に、東の小さな島の天皇が唐にも天竺にもない大寺院を作ろうと決心し、実現させてしまったのです。
当時としては壮大な事業で、これには朝鮮やシナからだけでなく、インドのバラモンやトルコ人まで参加しました。
そして、東大寺大仏殿は聖武天皇が目指した通り「三国一の大伽藍」で、当時では間違いなく世界最大の木造建築でした。
また、そこに安置されている「奈良の大仏」も鋳造された仏像としては世界最大のものでした。
信仰とボランティアで作られたお寺
この大仏造営の意義はその事業規模にあるわけではありません。
聖武天皇は河内国の知識寺というお寺で仏像を見て大仏造営を考えました。
知識寺というのは、地元の人々が財産や労力を持ち寄って建てたもので、聖武天皇は「大仏造営の詔」で次のようなことを言っています。
自分は天皇であるから、天下の富も力もすべて自分が持っている。
しかし、そうではなくて信仰をもとに、一枝の草、一握りの土でもいいから皆で資材や労力を持ち寄って、建設しようではないか!!
・・・と。
万里の長城のようなものは、本質的にボランティアで建てるというわけにはいきません。
しかし、東大寺は「権力者が建てるのではなく、みんなの力で建てよう」と民衆に呼びかけて作られたのです。
これは古代の権力者としては、斬新で画期的な発想でした。