天智天皇がまだ中大兄皇子だった時代。 同盟国である百済(くだら)が唐&新羅(しらぎ)に攻められていました。
皇子は百済救援軍を朝鮮半島に派遣しますが、白村江の戦いに敗れて日本軍は百済の亡命貴族とともに帰国します。
こうして外交的危機に直面した中大兄皇子は、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)や烽(とぶひ)を置いて西国の守りを固めます。
都も飛鳥(あすか)から近江大津へ移し、翌年即位して天智天皇になりました。
天智天皇の跡継ぎ争い
天智天皇が亡くなると息子の大友皇子が天皇の座につき、弘文天皇となります。
しかし、すぐに天智天皇の弟、大海人皇子が兵をあげて朝廷と大きな戦いになります。
これが、壬申の乱と呼ばれる大乱で、わずか8ヶ月で弘文天皇の時代は終わりを告げます。
大友皇子が反乱を起こした背景には、近江京に都を移す負担や、唐を手本にした公地公民制に対しての不満が豪族に溜まっていたためではないかとも言われています。
天智天皇が弟の大海人皇子ではなく、息子の大友皇子を後継者としたのも、唐の嫡子相続制に倣ったものでした。
仏教を重視した天武天皇
とはいうものの、実際に大海人皇子が天武天皇になって政治を運営するようになると、天智天皇の意志をついで律令国家の確立につとめます。
天武天皇は仏教を信じ、金光明経(こんこうみょうきょう)や仁王経(にんのうぎょう)を講じ、薬師寺を建てました。
685年には大和法起寺に三重塔を完成させます。 また、全国の家ごとに仏壇を作って仏像を拝むように命じます。
さらに、伊勢神宮の神宮を20年ごとに立て直すことを決めます。 この定めはなんと平成の今日まで、1300年以上にわたって行われています。
天武天皇は寺だけでなく、神社の修理も命じています。
この神も仏も平等に扱うという天武天皇の発想がそのまま現在にも残り、新年には神社に初もうで、お盆にはお墓参り、クリスマスには教会という日本人のメンタリティとして残っています。