蘇我稲目が外戚として皇室への影響力を強めると、さらにその息子の蘇我馬子が厩戸皇子(のちの聖徳太子)と泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)と力を合わせて、仏教反対派の物部氏を滅ぼします。
蘇我氏は崇峻天皇も暗殺。
ますます強くなっていき、政権を支配するようになります。
馬子の子、蝦夷(えみし)、さらにその子の入鹿(いるか)の時代になると、その横暴ぶりが目に余るようになり、聖徳太子の子である山背大兄王も皇位継承争いで一族もろとも入鹿に打たれてしまいます。
やがて、入鹿自身が皇位を狙いはじめます。
皇族になろうと企む実力者
近年の日本では臣下が皇位を狙うことはあり得ないと考えますが、当時はそうでもありませんでした。
聖徳太子の制定した十七条憲法に「国に二君なく、民に両主なし」と皇族の権威を成文化していることからも、その様子がうかがえます。
蘇我氏の横暴をとくに憎んだのが代々神事や祭祀をつとめ、かつて仏教受け入れ問題で蘇我氏と争った中臣鎌足でした。
中臣鎌足は神祇官の長官に任命されますが、それを拒み、蘇我氏を打つ計画を進めます。
クーデターの計画を実行するにあたり、中心人物として選んだのが中大兄皇子(のちの天智天皇)。
鎌足は中大兄皇子の蹴鞠(けまり)の会に参加すると、皇子の靴を拾い跪いて皇子に奉ります。
これにより、縁ができた二人は親しくなり、心を許しあう仲になっていきます。
二人は蘇我氏打倒の計画が漏れるのを恐れ、私塾にともに通うことにして、往復の道で策謀をめぐらします。
また、鎌足の提案により、入鹿の従妹の蘇我倉山田石川麻呂の娘を中大兄皇子の妃にし、石川麻呂を同志に引き入れます。
入鹿暗殺と大化の改新
645年。
朝鮮の国々(新羅・百済・高句麗)から貢物を運ぶ使者が来ました。
入鹿も出席してその儀式が行われ、石川麻呂が皇極天皇の前で上表文を読んでいる間に、皇子と鎌足が入鹿を斬り殺します。
息子の入鹿が殺されたことを知った蝦夷は、自宅に火を放って自害します。
このとき、聖徳太子が蘇我馬子とともに編集したとされる『天皇記』『国記』が一緒に焼けてしまいます。
こうして、中臣鎌足と中大兄皇子のクーデターは成功し、「大化の改新」がはじまります。
皇太子になった中大兄皇子は、まず、新たに即位した孝徳天皇とともに群臣を招集し、「帝道はただ一つである。天はわが手をお借りになって暴虐の徒を誅滅した。これにより後は君に二政なく、臣に二朝なし」と神々に誓わせました。
新しい政治の開始
実はこのころ大陸で唐の勢力が凄まじく、このクーデターは蘇我氏との権力争いにより起きたのではなく、東アジア情勢に対応するために天皇へ権力を集中させ国政を改革することに狙いがあったとも考えられています。
そのため、大化の改新では唐の律令制を手本として中央集権国家の建設を目指します。
蘇我氏を討ったクーデターの参謀、中臣鎌足。
その補佐をしていたのは、シナで学んできた南淵請安でした。
中臣氏や大伴氏はもともと反大陸の考えを持っていましたが、おもしろいことに一度政権を握ると中臣鎌足は唐の制度にならって政治機構を作りはじめます。
このあたり、幕末の攘夷派が国政を握った瞬間に鎖国をやめて開国したのとよく似ています。