<出典:wikipedia>
犬養毅 いぬかい つよし (1855-1932)
1855年。
犬養毅は、備中国(岡山県)に生まれました。
20歳の時に上京すると、福沢諭吉の慶應義塾に入学。
やがて「郵便報知新聞」に入社し、西南戦争では記者として九州に行きました。
1880年。
慶應義塾を中退した犬養は、『東海経済新報』を発刊。
本格的に記者としてスタートします。
翌年。
福沢諭吉の推薦で役人になりますが、大隈重信が「国会を開け!」と主張して追放されると、犬養も大隈に従って政府を辞めました。
1882年。
大隈重信が立憲改進党を結成。
犬養も、矢野文雄や尾崎行雄とともに参加しました。
立憲改進党に入った尾崎は、「郵便報知新聞」などで薩摩・長州藩出身者を中心に動く政府を批判しました。
1890年。
第一回衆議院議員選挙が行われると、犬養は岡山県で立候補し当選。
その後17回連続で当選を続けることになります。
1898年。
大隈重信が板垣退助と協力して内閣を作ると、犬養は文部大臣となります。
しかし、内部の争いから、わずか4ヶ月で内閣が倒れてしまいます。
1912年。
長州藩の勢力と、陸軍を背景にした桂内閣ができると、政治がますます独裁的なものとなっていきます。
そのため、人々の間で「憲法に基づいた政治を目指せ」という護憲運動が活発になります。
犬養もこの運動に参加。
先頭に立って、桂内閣を批判します。
そのかいあって、わずか50日で桂内閣は潰れます。
また、この運動の結果、犬養と尾崎行雄は”憲政の神様”と呼ばれるようになります。
1924年。
貴族院を中心とする清浦奎吾(きようらけいご)内閣ができました。
清浦内閣は議会を無視。
これに対して犬養は、ほかの政党とともに再び護憲運動を起こします。
そして、次の選挙で護憲グループが勝利。
加藤高明を総理大臣とする内閣を作り、普通選挙法を成立させました。
引退。民衆の求めに応じ再び政界へ
普通選挙法成立のあと一度引退した犬養。
支持者におされて再び国会にもどってきます。
そして、1929年。
立憲政友会の総裁になりました。
同年。
アメリカで株価が大暴落。
世界恐慌が発生します。
軍部は大陸に侵攻することでこれを切り抜けようとし、満州事変を引き起こします。
当時の内閣は、この責任を取って総辞職。
77歳の犬養毅が内閣を組織することになりました。
首相となった犬養は、軍部をおさえ満州事変解決に尽力します。
しかし、結局、軍部の力におされ、右翼や軍部がどんどん政治へ口出ししてくるようになってきます。
そして、1932年。5月15日。
犬養は、政治に不満を持つ海軍青年将校らに射殺されてしまいました。
この事件をきっかけに、政党政治が終了。
軍部が急速に力を強めていくことになります。