<出典:wikipedia>
与謝野晶子 よさのあきこ (1878-1942)
1878年。
与謝野晶子は大阪府堺市で和菓子屋の子どもとして誕生。
読書家だった父の影響で、小さいころから多くの本を読んでいました。
中でも、島崎藤村が好きで、青春のみずみずしさを詠った詩に心惹かれました。
このころ、与謝野鉄幹(よさのてっかん)が新しい時代にふさわしい短歌を作ろうとして、雑誌『明星』を発行。
これに共鳴した与謝野晶子は、『明星』に情熱的な歌を掲載しました。
1901年。
晶子は親の反対をおしきって東京へ。
翌年。
与謝野鉄幹と結婚しました。
また、その年にはじめて歌集『みだれ髪』を出版。
青春の情熱的な恋愛感情を思いのまま詠んだ歌に、人々は大きな衝撃を受けました。
日露戦争勃発!世論に堂々と反論した晶子
1904年。
日露戦争が勃発。
日本が総力をあげて戦ったため、人々の生活は苦しいものになります。
そんななか、ある日。
晶子は戦場に出発する兵士の中に、中国の旅順で戦っている弟とそっくりの若者を発見します。
そして、その夜、弟を心配する気持ちを詠みます。
「あゝ をとうとよ 君を泣く、君死にたまふ ことなかれ・・・」
この詩が『明星』に発表されると、大きな反響に!
当時は国や天皇のために死ぬことが名誉だと考えられていたため、「国民として許すべからざる悪口、危険な考えだ」と非難されます。
これに対し、晶子が反論。
「今のように死ねよ死ねよという方がかえって危険です。
女性はだれも戦争がきらいなのです」
このとき27歳で2人の子の母だった晶子は、世論に逆らい堂々と反論したのです。
1912年。
晶子はフランスへ渡り、ヨーロッパの新しい考えに触れてきました。
これをきっかけに婦人問題や教育問題などについても意見を発表するようになり、評論家としても活躍するようになりました。
評論家として活躍する一方、文学へも情熱を注ぎます。
これまでの短歌・詩のほかに小説や童話も発表。
さらに、平安時代の「源氏物語」を現代語に翻訳し『新新訳源氏物語』として完成させます。
11人の子を育てていた晶子は、苦しい生活の中で幅広い活動を続け、女性文化を向上させました。
そして、1942年。
太平洋戦争がはじまった翌年に、その一生を終えました。