夏目漱石(明治時代)

Natsume_Soseki_photo

<出典:wikipdeia

夏目漱石 なつめそうせき (1867-1916)

 

1867年。

夏目漱石は江戸牛込(東京都新宿区)で生まれ、金之助と名づけられました。

生まれてまもなく養子に出されますが、9歳の時にもとの家に戻ります。

小学生のころから漢詩・漢文に親しみ、優れた成績をおさめていました。

 

もともと文学が好きだった漱石は、英文学を学ぼうと決心し、大学予備門に入学しました。

そこで、正岡子規(まさおかしき)と知りあり、親しく付き合うようになりました。

やがて、漱石は東京大学の英文科に入学しました。

 

1893年。

大学を卒業した漱石は、東京高等師範学校、愛媛県立松山中学校、第五高等学校(熊本)の英語教師になります。

松山では正岡子規と一緒に住み、その影響でさかんに俳句を作成します。

 

1900年。

漱石は文部省からイギリス留学を命じられます。

ロンドンにつくと、東洋と西洋の伝統の違いにショックを受け、下宿から出ずに勉強に集中。

日本を外から眺めてヨーロッパの個人主義的な生き方を学び、3年後に日本に帰国します。

 

帰国した漱石は、第一高等学校と東京大学で英文学を教えていました。

やがて、俳句仲間の高浜虚子(たかはまきょし)のすすめで、雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を連載。

それまでの書籍は硬い文章ばかりでしたが、漱石の文章は口語体で読みやすく、評判となります。

そして、その後1年間のあいだに『坊ちゃん』『草枕』『二百十日』など、皮肉やユーモアや正義感にあふれる作品を次々と発表しました。

作家として生活を始める

1907年。

作家として生活することを決心した漱石。

教師を辞めて朝日新聞社に専属作家として入社します。

入社第一作目は『虞美人草(ぐびじんそう)』

続いて、『三四郎』『それから』『門』と、毎年のように作品を発表していきました。

 

1910年。

『門』を書き終えたころから、持病が悪化し病院生活を送ることとなります。

これをきっかけに漱石は人間の内面を深く追求。

『彼岸過迄』『行人』『心』などの作品を発表します。

1916年。

漱石は長編小説『明暗』の連載を開始。

しかし、188回分を書いたところで胃の病気が再発し、そのまま亡くなってしまいました。

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