<出典:wikipedia>
北里柴三郎 きたざとしばさぶろう (1852-1931)
1852年。
北里柴三郎は肥後国(熊本県)の庄屋の家に生まれました。
はじめは、藩校の時習館(じしゅうかん)で学んでいましたが、途中で藩校が廃止。
そこで、熊本医学校(現在:熊本大学医学部)に入学しました。
熊本医学校では、オランダ人医師マンスフェルトの教えを受け、医学に一生を捧げる決心をします。
1875年。
マンスフェルトが辞めてしまうと北里も退学して、東京医学校(現在:東京大学医学部)に入学し勉強を続けました。
東京医学校を卒業した北里は内務省衛生局に勤めることとなります。
ちょうどそのころ、長崎でコレラが発生。
当時、コレラは感染力が強く、死者が多く出る恐ろしい病気でした。
そのため、誰もが調査を嫌がりましたが、北里はすすんでこの調査に乗り出します。
そして、その結果、日本で最初にコレラ菌を発見しました。
北里はコレラ対策での活躍が認められ、ドイツへ留学することに。
世界的な細菌学者コッホのもとで研究を始めます。
コッホの研究室に入った北里は、寝る間も惜しんで研究に打ち込むと、1889年。
世界で初めて破傷風菌の発育を成功させます。
そして翌年。
破傷風の治療法を発見し、北里柴三郎の名前は世界に知られるようになりました。
コッホもこの発見を、「この研究室始まって以来の大発見だ」と言って褒めたたえたといいます。
世界三大研究所と呼ばれるようになる
日本に帰国した北里。
政府に伝染病研究所の設立を要請します。
しかし、伝染病の研究は、国の力を強くすることに直接はつながりません。
そのため、政府の対応は冷たいものでした。
政府の援助を受けられなかった北里は、福沢諭吉らに援助してもらい、1892年に東京の芝に伝染病研究所を設立しました。
1894年。
香港でペストが発生すると、現地で調査を始め、ペスト菌を発見。
次々と病気の解明をする北里のもとには、野口英世や志賀潔、秦佐八郎(はたさはちろう)など、多くの医者が集まってきました。
こうして、北里の伝染病研究所は、ドイツのコッホ研究所、フランスのパスツール研究所と並ぶ、”世界の三大研究所”といわれるようになりました。
1914年。
政府は世界的にも有名になった伝染病研究所を、東京大学医学部の付属にしようとします
このとき、北里は学問の独立と自由のために所長をやめ、自分で北里研究所を設立。
1917年。
慶應義塾大学に医学部が開設。
福沢諭吉の長年の好意にこたえるため、医学部長を引き受けました。
1931年。
医学の発展につくした北里柴三郎は、息を引き取りました。