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陸奥宗光 むつ むねみつ (1844-1897)
1844年。
陸奥宗光は紀州(和歌山県)藩士の子として生まれました。
京都にいたとき、坂本龍馬を知ります。
龍馬は貿易などを行う海援隊を組織。
陸奥もその一因となって活躍します。
新政府ができると、陸奥は外国事務局に入って外交の仕事に就きました。
ついで、兵庫県や神奈川県の知事となり、1872年には、地租改正についての意見書が認められて大蔵省に移ります。
西郷隆盛らによる征韓論が起こると、陸奥は中立の立場をとります。
しかし、薩摩藩と長州藩の出身者が政治を勝手に動かしていることに不快感を示し、政府をやめました。
1877年に西南戦争が勃発。
陸奥も兵をあげる計画を立て、禁獄5年の刑を受けます。
1884年。
出獄した陸奥は伊藤博文のすすめもあり、ヨーロッパとアメリカに留学。
2年後に帰国し、外務省に入ると、アメリカ公使となってメキシコと通商修好条約を結びました。
1890年。
山県有朋(ありとも)が総理大臣になると、陸奥は農商務大臣に抜擢されます。
2年後。
伊藤博文内閣の外務大臣となると、イギリスとの交渉を開始。
江戸時代に結んだ不平等条約の改正に尽力します。
これにより、1894年。
日英通商航海条約の調印に成功。
治外法権が取り除かれ、日本で外国人が罪を犯したときに日本の法律で裁けることになりました。
下関条約と三国干渉
1894年。
朝鮮で農民の反乱がおこります。
朝鮮政府はこれを鎮めるため、清(中国)に援軍を依頼。
朝鮮への進出をもくろむ日本もすぐさま軍隊を送りました。
これをきっかけに、日清戦争が勃発。
日本は清に勝利し、下関条約を結ぶこととなります。
下関条約の内容が明らかになると、アジアへの南下を企むロシアがドイツ・フランスを引き連れ干渉してきます。
しかし、強大な3ヵ国に対抗する力は、日本にはありません。
そこで陸奥はやむなくこの要求を受け入れることにしました。
1896年。
病気により陸奥は外務大臣を辞めました。