<出典:wikipedia>
伊藤博文 いとうひろぶみ (1841-1909)
1841年。
伊藤博文は長州藩(山口県)の農家に生まれました。
13歳の時。
足軽の伊藤家の養子となると、やがて松下村塾で吉田松陰から学ぶようになります。
1863年。
博文は藩の許しを得てイギリスに留学。
そこで、長州藩が外国船を砲撃したため、「イギリスなどの4ヶ国が報復のため下関を砲撃する」というニュースを知ります。
ニュースを知った博文は急いで帰国。
藩の重役に戦いを避けるように説得しました。
しかし、これが聞き入れられず、長州藩は敗れ下関砲台を占拠されてしまいました。
これを機に博文は、木戸孝允に従い江戸幕府を倒す運動に加わりました。
新政府ができると、博文はその力を認められ、財政や貨幣制度の調査のためアメリカへ渡ります。
ついで1871年。
岩倉使節団にも同行。
海外の進んだ制度を学びます。
1878年。
大久保利通が殺されると、博文は大隈重信とともに政府の中心人物になります。
自由民権運動が高まってくると、1890年に国会を開くことを約束。
同時に、国会開設を急ぐべきだと言った大隈を政府から追放します。
国会開設が決まると、そのために必要なのが憲法。
博文は憲法を調査するためにヨーロッパに渡り、君主の権力が強いドイツの憲法を勉強します。
そして1885年。
内閣制度が作られると、伊藤博文は初代総理大臣になりました。
その後も、博文は憲法作成に力を注ぎます。
ドイツから招いた憲法学者ロエスレルの意見を参考に、井上毅(こわし)・伊東巳代治(みよじ)らと憲法を作っていきます。
1889年。
ついに大日本帝国憲法が完成。
天皇が国民に与えるという形で発布されました。
朝鮮への進出
1894年。
博文は2度目の内閣を組織していました。
このとき、日清戦争が起こります。
これに勝利した日本は、下関で講和条約を締結。
清(中国)に朝鮮の独立を認めさせ、台湾・リアオトン半島を手に入れ、賠償金3億円を支払わせます。
1900年。
国会で政治をするにあたり、政党に苦しめられた博文は、自ら立憲政友会を作ります。
そして、この政友会を基礎に内閣を作り上げますが、貴族院の反発などですぐに潰れてしまいました。
1905年。
日露戦争に勝利すると、日本はソウルに統監府という役所を設置。
韓国の支配を強力なものにします。
博文はここの初代統監となり、武力で韓国を支配。
植民地政策と近代化を進めていきます。
しかし、1909年。
博文は中国のハルビン駅で、韓国の青年に殺されてしまいます。
これを受けて、日本は韓国併合を行うこととなります。