岩倉具視(明治時代)

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<出典:wikipedia

岩倉具視 いわくらともみ (1825~1883)

 

1825年。

岩倉具視は、京都の公家の子として誕生。

13歳の時に岩倉家の養子となると、1854年に孝明天皇のそばに仕えることとなります。

 

このころ、日米修好通商条約を結ぶため、老中の堀田正睦(まさよし)が天皇の許可を求めてやってきますが、岩倉や他の公家たちはこれに反対。

1860年に、桜田門外の変で井伊直弼(いいなおすけ)が殺されると、幕府は朝廷と結んで政治を安定させようとします。

 

朝廷の政治力を強くしたいと考えた岩倉具視。

政略結婚を実現させます。

しかし、ほかの公家たちは幕府と結んだことを非難。

岩倉は朝廷から官位を返すように命じられ、郊外の岩倉村に追放されてしまいます。

 

岩倉村に戻った岩倉具視。

周囲では幕府を倒そうとする動きが高まっていました。

そこで、倒幕派の大久保利通らと連絡を取り、天皇中心の政治を行うために行動します。

1867年。

朝廷に許され京都に戻ると、武力で幕府を倒そうとする薩摩・長州藩と手を結び、王政復古の大号令を発令。

天皇中心の政治を取り戻すことを宣言して新しい政府を作ります。

そして、御所内で有力な公家と大名を集めて会議を開きます。

この会議で岩倉は、山内豊信(とよしげ)らの反対を上手く抑えて、江戸幕府将軍だった徳川慶喜に官職や領地の大部分を朝廷に返すように命じました。

 

これに不満を持った旧幕府勢力は、新政府に戦いを仕掛けてきます。(戊辰戦争)

新政府はこの戦いに勝利し、岩倉は大久保利通らと政治改革をはじめます。

視察と交渉のため海外へ

1871年。

幕末に結んだ日米修好通商条約。

日本にとって不利な条約だったため、岩倉はこれを改正するためにアメリカ・ヨーロッパへ向かいます。

まず、アメリカで交渉。

しかし上手くいかなかったため、岩倉は各国の政治や産業の視察に切り替えます。

そして、各国を回って1873年。

日本に帰国します。

 

日本に帰国した岩倉を待ち構えていたのが、西郷隆盛の征韓論

特権を剥奪された武士の不満をそらすために、朝鮮へ進出することが決定していました。

しかし、海外を見てきた岩倉にとって、日本の力を強くすることこそ急ぎの課題でした。

そのため、征韓論に反対。

征韓論は却下されますが、これを快く思わなかった武士たちは岩倉を襲撃し、岩倉は負傷します。

 

やがて、政府が憲法に基づいて政治を行うことを決めます。

岩倉はこれにも反対。

もともと、天皇を中心とした政治を考えていた岩倉にとって、立憲国家は理想ではありませんでした。

 

1883年。

明治維新実現の功労者、岩倉具視は、病気で亡くなりました。

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