<出典:wikipedia>
織田信長 おだのぶなが (1534~1582)
1534年。
織田信長は愛知県にある尾張国(おわりのくに)で織田家の子として生まれます。
信長は若いころから変わった行動をとっていたため、「大うつけ者(大ばか者)」と呼ばれていました。
しかし、18歳で織田家をついだ信長は、一族を従え尾張を統一。
1560年に、当時最強と言われた今川義元の大軍を破り、名をあげます。
やがて信長は、三河国(愛知県)にいた徳川家康と手を組み、美濃国(岐阜県)の斎藤氏を滅ぼすと、岐阜城に入りました。
ここから、天下統一を目指して動いていきます。
1568年。
信長は、室町幕府14代将軍の弟、足利義昭(よしあき)が将軍になるのに協力。
これにより京都に入ることに成功します。
しかし、信長が実権を握ったことに気付いた足利義昭。
浅井長政などの戦国大名と手を結んで、信長包囲網を作り上げます。
これに苦戦した信長ですが、浅井氏を破ると、続いて比叡山延暦寺を焼き払います。
そして、1573年。
足利義昭を京都から追放し、室町幕府を滅亡させます。
1575年。
長篠の戦いが起きます。
徳川家康と組んだ信長は、最強の騎馬隊を持つ武田軍と戦います。
はじめは武田信玄の強さに、一方的にやられた織田・徳川連合軍。
しかし、途中で信玄が病死すると、状況が一変。
長篠の戦いで鉄砲隊を用いた新しい戦で、武田軍を打ち破ります。
勢力を拡大した信長。
交通の便が良い琵琶湖のほとりに安土城を築き上げ、ここを天下統一の中心にしようと決めます。
また、安土城の周りにできた町では、商人たちに自由な営業を認め、人々の通行も自由にします。(楽市楽座)
戦にはお金が必要だったので、商業を発展させる必要があったのです。
新しいもの好きだった信長は、キリスト教も保護。
城下に教会も建設されました。
明智光秀の裏切り
信長の天下統一に最も抵抗した浄土真宗の一向一揆。
信長は各地の一揆を平定しながら、1580年に、その中心である石山本願寺を降伏させます。
ついで、信長は最後に残った強敵、中国地方の毛利氏を討つために羽柴秀吉を派遣します。
このとき、信長は全国各地に軍隊を送っており、まさに天下統一までの総仕上げをしていました。
しかし、羽柴秀吉が苦戦。
信長に救援を求めます。
1582年。
信長は秀吉の救援に向かいますが、その途中。
家来の明智光秀が裏切ります。(本能寺の変)
光秀に包囲され逃げ場のなくなった信長は、自ら命を絶ち、天下統一目前で生涯に幕を閉じます。