牛若丸こと源義経が戦っている時、兄の今若丸と乙若丸は何をしていた?

<出典:wikipedia

1160年。
源義朝が平治の乱で敗戦し、謀反人として亡くなった時、平氏によって息子の源頼朝は伊豆へ流罪にされました。
頼朝の異母弟、今若丸・乙若丸・牛若丸も出家することを条件に助命されました。
牛若丸こと源義経(1159年~1189年)は母親の常盤御前が一条長成(いちじょうながなり)に再婚する際、鞍馬寺に預けられましたが、
二人の兄たちはどうなっていたのでしょうか。

今若丸と乙若丸 プロフィール

源義経の兄たちは、実は牛若丸よりも早い時期に寺に出され、出家しています。

【今若丸改め阿野全成(あのぜんじょう/1153年~1203年)
牛若丸とは6歳違いの兄である今若丸は、源義朝の7男です。
1159年の平治の乱で父親の源義朝が敗死した後は、醍醐寺にて出家。
はじめは隆超、のちに阿野全成と名乗りました。

【乙若丸改め義円(ぎえん/1155年~1181年)
牛若丸とは4歳上の兄、今若丸とは2歳下の弟となる源義朝の8男です。
兄の今若丸と同様、父義朝が亡くなったあとに園城寺で出家。
卿公(きょうのきみ)円成と名乗り、白河天皇の皇子・円恵法親王(えんえほっしんのう)の元で務めたのち、義円と名乗りました。

鞍馬寺に預けられた牛若丸こと義経も含めて、常盤御前の息子たち3人ともが寺に預けられ、平氏を刺激しないよう僧侶として生きて行くことを決められていたのです。

源義経が頼朝軍に参加。そのとき阿野全成と義円は?

牛若丸は11歳になってから鞍馬寺に預けられ、のち僧になるのがいやで鞍馬寺を出奔。
元服し、源義経と名乗った後は奥州の藤原の秀衡を頼って平泉に下りました。
その後、異母兄の源頼朝が伊豆で挙兵した時に、兄の軍勢に加わっています。

では、出家していた阿野全成と義円たちは何をしていたのでしょうか?
実は、源氏が立ち上がるタイミングで、彼らも動いていたのです。

【阿野全成】
今若こと阿野全成は、「醍醐寺悪禅師」と呼ばれるほどの豪傑に成長しました。
1180年に以仁王の令旨が出され、全国の源氏の決起を促されるや否やすぐに東国で頼朝に対面しています。
義経が頼朝に対面する数ヶ月前でした。
「以仁王が平家追討の令旨を下されたことを聞き、密かに醍醐寺を出て修行僧を装って下向してきた」と語り、頼朝を感激させています。

全成は源頼朝の平家討伐、鎌倉幕府成立に貢献し、頼朝に尽くします。
頼朝に所領や寺を与えられ、頼朝の妻である北条政子の妹とも結婚。
ところが、頼朝が亡くなると、2代将軍頼家と比企一族、実朝と北条氏との対立に巻き込まれます。
1203年、将軍頼家の手の者に謀反の容疑で捕らえられた全成は、流罪ののち下野国(栃木県)で殺されてしまいました。
享年51。

【義円】
乙若こと円成も頼朝の挙兵を聞くと、僧兵のように頭巾と墨染の衣姿で鎌倉へ駈け付けました。
そして父親・義朝から一字を取って義円と改名しました。
1181年義円は、尾張での墨俣川合戦で叔父・源行家の援軍として参陣。
墨俣川を挟んで7千の平重衡(たいらのしげひら)軍と3千の源行家・義円軍が対峙しました。
この時義円は行家に負けぬよう自分が先陣を切らねば兄・頼朝に合わす顔がないと考え、勇み足を踏んでしまいます。
ひとり馬に乗り、敵陣側の岸にひそみ、夜明けとともに名乗りを挙げて先陣のさきがけをしようとしたのです。
ところが、その姿を見廻り兵が発見。
義円は「兵衛佐頼朝の弟で卿公義円だ」と叫び、戦いに挑みましたが、合戦に慣れていなかった義円は、力つきて討たれてしまいました。
享年27。
この戦いでは源氏も惨敗し、討死・溺死する者690余人にも及んだそうです。

武士として生きた今若と乙若

僧侶として育った源義経の兄たち、阿野全成と義円。
しかし彼らやはり源氏の一員でした。
兄・源頼朝が立ち上がった時に、僧侶としての自分より武士として源氏としての血が騒いだのでしょう。
今でも、静岡県沼津市の大泉寺には阿野全成の墓が、義円地蔵、義円の供養塔のある岐阜県大垣市の義円公園に近い墨俣町には義円の墓があります。

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