もうひとつの松の廊下刃傷事件

<出典:wikipedia

『忠臣蔵』で知られる「松の廊下刃傷(にんじょう)事件」。
1701年、江戸城内の松の廊下で起きたこの大事件をご存知の方は多いことでしょう。
実は、その24年後、1725年に「もう一つの松の廊下刃傷事件」が起きています。

有名なオリジナル「松の廊下刃傷事件」とは

1701年、江戸城内松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が高家(こうけ)である吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけた刃傷事件です。
当日は、江戸城で朝廷からの勅使饗応という大変重要なイベントがありました。
当時の第5代将軍・徳川綱吉は、
そんな大切な日に禁止されている江戸城内での抜刀し、しかも斬りつけて相手を怪我させた内匠頭に怒り、
大変厳しい処分を下しました。
結果、赤穂藩はお取りつぶし。
そして藩主浅野長矩は即日切腹。
これが原因で赤穂義士事件が起きたことは、現代でも『忠臣蔵』のドラマやお芝居でよく知られています。

「もうひとつの松の廊下刃傷事件」とは

第8代将軍・徳川吉宗の時代に起きました。
1725年7月28日は、諸大名が江戸城に登城する日になっていました。
そんな日に、松の廊下で松本藩主・水野忠恒(みずのただつね)が、長門清末藩の世継ぎ・毛利師就(もうりもろなり)に突然斬りかかったのです。
しかし師就は鞘ごと脇差しを抜いて忠常の手を打ち、忠恒が持っていた脇差しを落としました。
そして事件を目撃した目付の長田元隣(おさだもとちか)が師就を、そして美濃大垣新田藩主・戸田氏房が忠恒を取り押さえたことで、争いはそれ以上には発展しませんでした。

第二の刃傷事件の背景とは?

水野忠恒は、日ごろから酒に溺れており、やたら弓矢を射かけ、銃を発砲するなど奇行が目立つ人物でした。
家臣からも人気がなかったようです。
毛利師就を襲った理由は「水野家が改易され、その所領が師就に与えられる」との噂を信じたためでした。
しかし、実際にはそんな事実はありません。
そこで、事件は「水野忠恒の乱心」として決着。
忠恒はその場で改易、本人は叔父である水野忠穀(ただよし)のもとで蟄居となりました。

実は蟄居先の叔父・忠穀は、子のなかった忠恒の養子でもあります。
つまり養父が養子のもとで蟄居したのです。
のち忠恒は1739年に没しています。
もともと水野家は、徳川家康の母の実家に関わる由緒ある家系でした。
そして、松の廊下事件では被害者だった毛利家が幕府に取りなした甲斐もあり、養子の水野忠穀はその後信濃佐久郡に7千石が与えられ、旗本に取り立てられています。

2つの松の廊下刃傷事件の不思議な縁

被害者だった毛利師就は、1735年に亡くなっています。
その墓所に注目です。
それは江戸の泉岳寺。
高輪の泉岳寺といえば、最初の松の廊下刃傷事件、赤穂事件で有名な浅野内匠頭長矩と赤穂浪士が葬られている寺院です。

また、斬りつけた側の水野忠恒は、戸田氏長の養女(もともと氏長の同母妹)と結婚していました。
この忠恒の妻の実父である大垣藩の戸田氏定(うじさだ)は、なんと14年前の松の廊下刃傷事件を起こした張本人・浅野長矩の従兄弟です。
第二の刃傷事件が起きたとき、氏定はまだ健在でしたから、彼は二度の松の廊下刃傷事件の関係者に関わっていたわけですね。

2つの事件には特に関連性はありませんが、どちらもその原因に謎あり。不思議な偶然を持つ事件でした。