まだ現役。93歳の武将・大島光義が立った関ヶ原

<出典:wikipedia

戦国時代はもちろん現代においても93歳は正真正銘の老人でしょう。

息子と一緒に関ヶ原の戦いに東軍武将として参加した武将・大島光義(1508年-1604年)
この人物、老年になってもなかなか痛快な人物なのです。

幼少時代と初陣

のちに大島雲八(おおしまうんぱち)の名で知られた大島光義は、美濃国(現岐阜県)出身です。
父親が1512年の山県合戦で戦死したため孤児になりましたが、大杉弾正に引き取られ養育されました。

初陣は13歳。
美濃国人との戦いで、弓で相手を射止め、周囲の者を驚かせています。
また、養ってもらっていた大杉氏の屋敷に人が押し入った際にも、光義が弓で応戦。
敵2人を射殺し、敵勢を退散させました。
そのころから弓の遣い手としての片鱗を見せていました。

信長によって認められ、秀吉によって大名となった

光義は、その後美濃斎藤家に仕えた重臣・長井道利(ながいみちとし)に仕え、
長井氏没落後には織田信長に請われて、1564年に信長の弓大将となりました。

1570年の姉川の戦いで戦功が認められ、信長に「白雲をうがつような働き」と賞されたことから、通称「雲八」となりました。
実はこの時の光義は既に還暦でしたが、信長の元では最前線で働き、期待に応える戦功を挙げています。
本能寺の変で信長が亡くなると、その後斎藤利堯(さいとうとしたか)、丹羽長秀、丹羽長重に仕え、順調に禄高も増えて出世していきました。

その後豊臣秀吉にも仕え、1590年の小田原征伐には300騎を、朝鮮出兵でも弓手200人を率いて参戦。
1598年には美濃国・尾張国・摂津国など合せて1万1200石の大名となりました。

弓の達人は武芸の達人

『丹羽家譜伝』によれば、光義の弓の実力は「百発百中ノ妙ヲアラワス」と評されたほどでした。
その証拠として、豊臣秀次に仕えた時に、当時もう80歳を超えていた光義が、秀次の命令で、京の法観寺(ほうかんじ)の高さ約46mの八坂の塔の天井の小窓に矢を10本中10本射込む驚異的な弓の実力を見せています。

槍や鉄砲で狙われても、槍を繰り出されるよりも鉄砲を撃たれるよりも早く弓で射殺した、
大木の陰に隠れる敵兵の首元を樹木ごと射貫いた、
などの逸話が弓の遣い手としてピカ一の彼の腕前を示しています。

剣の遣い手としても優れ、さらに槍の名手と武芸を争ったことがきっかけで槍術も学び、のちに槍の武功でも感状をもらうほどの遣い手となりました。
きっと戦うセンスがあった人物なのでしょう。
これらの話しはいずれも当時なら隠退していてもおかしくない年齢での出来事ですから、驚きです。

93歳で参戦した関ヶ原の合戦

さらに驚くことに、1600年、93歳だった光義は、嫡男の光成とともに徳川家康の会津征伐に従軍しています。
その時に石田三成の挙兵を知り、関ヶ原の戦いへと参戦することになりました。
次男である光政や三男光俊は西軍に参加、光義は嫡男とともに東軍に。

「93歳で合戦に参加など可能か?」と考えてしまいますが、なんと光義はこの戦いでも武功を挙げたのです。
家康もさすがに老将に対しては敬意を表し、真壺・大鷲を褒美として与えました。
また、その時に光義は豊後国臼杵城の城主に推挙されますが、彼はそれを辞退し、代わりに美濃国の関と摂津国の一部を合せて家禄が1万8000石に加増されました。
彼の活躍により、西軍についた次男と三男も許されています。

関ヶ原の1年後には、家康に請われ、温和で誠実な性格でありながら勇猛だった武将・堀尾可晴(ほりおよしはる)、豊臣秀吉や徳川秀忠の御伽衆の一人・猪子一時(いのこかずとき)、関ヶ原の功績で旗本となった船越景直(ふなこしかげなお)らと共に関ヶ原の戦いや昔話などをしたということです。

生涯53度の戦に参戦し、41通の感状を得たほどの弓の達人・大島光義。
信長、秀吉、家康という3人の天下人たちからその腕を高く評価され、人生の終盤まで現役で活躍した人物です。

弓で戦国の世を渡った男は、1604年8月23日、97歳にて死没しました。