<出典:wikipedia>
とんち話で知られた一休さんこと一休宗純(1394年―1481年)。
あのとんち話が全て本当ではないことはお分かりになると思いますが、
それでも一休は実在していました。
とんち話で非常に有名な一休について、本当の彼がどんな人物だったかをいくつかの点について検証してみました。
ざっと紹介 一休宗純
一休というのは法名(仏門に入る人に授ける名前)です。
彼は京都出身で、後小松天皇の御落胤だといわれています。
母親も藤原氏出身で、后ではなかったとはいえ、高貴な血を引いた人物でした。
幼名は千菊丸。
「菊」の文字が入るだけあって、その高貴さが感じられます。
6歳の千菊丸は安国寺に入門し、周建と名付けられたといいます。
詩の才能があり、13歳と15歳の時に作った漢詩が都で評判になったそうです。
1415年には京都の大徳寺の高僧・華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となり、一休の号を授かります。
一休宗純はかなりクセのある破戒僧でした。
仏教でいうお墨付きを与えようとした華叟の印可状を断り、詩や狂歌、書画と自由の生活を送ったそうです。
民衆に慕われ、天皇にも信頼され、1474年には後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となりました。
また、のちに妙勝寺を再興して酬恩庵(しゅうおんあん)を結び、それが後に一休寺とも呼ばれるようになりました。
そして、1481年にその一休寺でマラリアによって87歳の生涯を閉じました。
検証してみる
1.一休とんち話は本当なのか
一休という名前になったのは大人になってからのことです。
小坊主時代の彼はまだ一休とは呼ばれていませんでした。
つまり、一休という名の小坊主自体存在していなかったのです。
とんち話の設定からして違っていた、というわけです。
2.アニメ「一休さん」に登場する蜷川新右衛門(にながわしんえもん)は実在したのか?
実在しています。
ただし、蜷川氏の当主が代々名乗る名前が新右衛門です。
つまり新右衛門さんが沢山いたわけです。
ただ、アニメに登場する寺社奉行の武士・新右衛門は、架空の人物だと思われます。
室町幕府には寺社奉行という役職が存在しませんので…。
ちなみに、晩年の一休と交友関係があったのは、足利幕府に仕えた武術に優れ、連歌師でもあった蜷川親当(にながわちかまさ)です。
3.一休的には「マイ寺院」は大徳寺か一休寺か?
一休の寺として知られるものに、大徳寺と一休寺があります。
しかし、一休的に言えば「マイ寺院」は一休寺でしょう。
彼が大徳寺の第47代住職になったのは、応仁の乱によって荒廃してしまった大徳寺を復興させようとした朝廷にお願いされたからです。
依頼した朝廷のその理由は、当時民衆に絶大な人気のある一休の名を利用すれば、寺の再建のための資金を集めやすかったから。
一休はというと、朝廷からの頼みであれば断ることもできず引き受けましたが、本人は一度も大徳寺に暮らしたことはありません。
本当に暮らしたのは酬恩庵。
生涯の最後の25年をそこで愛する女性と暮らし、そこが後に一休寺と呼ばれるようになったのです。
4.破戒僧一休の愛した女性とは?
1467年の応仁の乱のあと、大坂で出会った盲目の美しい旅芸人・森侍者(しんじしゃ)。
鼓を打っていた彼女はその頃20代後半。
一休は既に76歳。
50歳もの年の差を超えて彼女に惚れ込んだ一休は、彼女と共に一休がこの世を去るまで酬恩庵で共に暮らしたということです。
一休の最期
2度も自殺未遂をしたくせに、マラリアで死んだ一休が最期に残した言葉は「死にとうない」だそうです。
最期までじたばた人間っぽく生きた一休。
酒色にふけり、肉食もした破戒僧一休の生涯は、権力におもねった多くの高僧やそれを許す仏教界への反発が根底にあったと言われています。
風狂と言われ、自由な生き方をした一休ですが、それでも出自が高貴である彼の墓は、現在宮内庁が管理しています。
酬恩庵つまり一休寺の奥で宮内庁が管理する陵墓に眠っているのです。
菊の御紋がついた門がありますが、一般人はそこから参拝します。
そんなところは、どうも一休らしくないのですが。