燃えゆく応天門を見つめる謎の男

<出典:wikipedia

『伴大納言絵巻』という平安時代の3巻の絵巻物があります。
これは、866年閏3月10日の夜中に、平安宮大内裏の朝堂院の応天門が炎上したことから発した「応天門の変」を題材にした絵巻物です。
炎に包まれる応天門の絵に描かれているのは、騒ぐ庶民や、貴族たちの混乱の様子。
そしてぽつんと一人描かれた、黒い装束の貴族の男です。
内裏の清涼殿の前庭から、燃えさかる応天門をじっと見ているその男とは誰でしょう?

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平安京のシンボル・応天門の火事

平安京の大内裏にある朝堂院は、即位式や大嘗祭(だいじょうさい)といった重要な儀式が行われる場所です。
その正門となる応天門は、平安京のシンボルのようなものでした。
都の人々は、火災を「祟りだ」と噂しましたが、火の気のない門からの出火が人為的な放火であったことは明らかでした。

大納言・伴善男の密告

事件から2ヶ月後。
火災の調査に大きな進展がありました。
大納言・伴善男(とものよしお)が「犯人は左大臣の源信(みなもとのまこと)」だと密告したのです。

当時の朝廷、政権トップ4
・ナンバー1:太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ)
・ナンバー2:左大臣であり臣籍降下した嵯峨天皇第7皇子・源信
・ナンバー3:右大臣であり良房の弟・藤原良相(ふじわらのよしみ)
・ナンバー4:大納言・伴善男

つまり、ナンバー4がナンバー2を放火犯だと密告したわけです。

指摘された源信は、臣籍降下したとはいえ天皇の皇子。
文武に秀でており、書や音楽などの芸事にも通じた人物です。

ナンバー3の右大臣の藤原良相(ふじわらのよしみ)は、犯人とされる源信に向けて兵を派遣しますが、彼は心の中で「左大臣の源信の失脚は右大臣の自分のチャンス」と考えたでしょう。
しかし、ナンバー1の太政大臣・藤原良房は、さすがに皇子との対決はまずいと考え、弟の良相の派兵を止めました。
そして源信自身も当時の清和天皇に直訴を行い、なんとか放火犯の汚名を晴らしました。

告発の理由

考えてみれば、密告についての信憑性は怪しいものでした。

伴氏の祖先は古代からの有力氏族・大伴氏で、大和政権の中枢に君臨したこともある名門。
一時は衰退していましたが、伴善男が朝廷ナンバー1の藤原良房に取り入り、名家が復興したばかりでした。
源信が失脚すれば彼の地位は繰り上がり、一族がもっと栄えるはず・・・。
政務には長けていましたが、犯行動機がありそうな上に、彼自身は、なかなか狡猾で非社交的な人物だったということで、人に好かれるタイプではなかったようです。

急展開の事件

8月になるとその事件は更に急変。
大宅鷹取(おおやけのたかとり)という役人が「応天門の放火犯は伴善男父子だ」と告発したのです。
すぐに取り立てられる伴善男。
調べに対し、もちろん彼は否認します。
しかし、その間に告発者の鷹取の娘が殺害される事件が発生。
しかも犯人が、善男の2人の従者だったので、余計に善男が怪しまれます。
そして、2人は「応天門の放火は、善男の指示を受けた息子の伴中庸(とものなかつね)が実行した」と供述しました。

善男は持っていた荘園も財産も全て没収され、伊豆国へ流罪。
息子の中庸や一族の多くが流罪となり、名門・伴氏は歴史の表舞台から消えてしまいました。

真犯人は誰? 誰が一番トクをしたか。

この事件の真犯人は残念ながら藪の中です。
事件の捜索もあやふやに終了し、誰もが納得する答えは見いだせませんでした。

事件後、源信は屋敷に引きこもりがちとなり、3年後には落馬事故で死亡。
藤原良相も翌年に死没しています。
伴善男は流罪で消えていますから、2、3、4と消えた後、トップ4の中で残ったのはナンバー1の太政大臣・藤原良房ただ1人。
その後の彼は、誰に邪魔されることなく人臣として初めての摂政に任じられ、摂関政治を開始し、藤原氏全盛期の基盤を築いています。
彼をこの事件の黒幕とする説もあるようですが、真実はわかりません。

確かなことは、応天門の火災を利用して政界でのし上がろうと画策した伴善男を、逆に良房が利用して自分のライバルたちを消すのに成功したということです。
あの絵巻物の中で燃え上がる応天門を一人見つめる謎の男。
それは誰だったのでしょうか。