「ニッカリ青江」「鯰尾(なまずお)藤四郎」「乞食清光」。
これらは全て名刀と呼ばれる日本刀の名前もしくは刀匠の名前です。
「大包平(おおかねひら)」「虎徹」「菊一文字」など、いかにも斬れそうな名前の刀剣がある一方で、
今回はこれらのような変わった名前を持つ3振りの刀をご紹介します。
ニッカリ青江
【重要美術品 大脇差 安土桃山時代 青江貞次作 丸亀市立史料館所蔵】
元々は太刀だったのですが磨りあげ、大脇差しに仕立て直されています。
「にっこり」ではなく「ニッカリ」。
どこか不気味な雰囲気が漂いますが、この刀にはいくつかの怪異譚が残っています。
・浅野長政の家臣が伊勢を旅する途中、夜道の路傍でニッカリ笑いかける若い女に遭遇。
化け物だと見破り、抜き打ちに首をはねたが、翌日に探しても女の亡骸は見つからず、路傍の地蔵の首が転がっていた。
・武士が領内の化け物の噂を聞いて出掛けると、夜中に子供を抱いた怪しい女がお武家様に子供を抱いて欲しいと懇願してきた。
近づく子供を斬り、さらにニッカリ笑う女も斬り捨てた。
翌朝、その場所を確認すると石灯籠が真っ二つになっていた。
斬った人物は伝承によって、近江国の浅野長政の家臣、近江国の中島修理太夫・九理太夫兄弟、六角義賢の家臣などの名前が挙がっています。
怪異譚を受けて豊臣秀吉に召し上げられた時に「ニッカリ」と名付けられたというこの刀。
なんとも不気味な伝承を持つ刀です。
しかし、石工の祟りによって呪われたという丸亀城の京極氏が、ニッカリ青江を家宝にすると、不思議と祟りが治まったという話も…。
鯰尾藤四郎
【脇差 鎌倉時代 粟田口吉光作 徳川美術館所蔵】
刀の刃の形が鯰の尾に似ていることから「鯰尾藤四郎」と呼ばれています。
秀吉以来の豊臣家に伝わる刀で、豊臣秀頼の愛刀でした。
もともと長巻(ながまき)と呼ばれる大太刀の一種を脇差に直したものです。
作刀したのは、鎌倉時代に京の粟田口で活躍した粟田口吉光、通称・粟田口藤四郎です。
鎌倉の岡崎正宗、郷義弘(ごうのよしひろ)と共に「天下の三名工」と称されました。
この鯰尾藤四郎は、大坂夏の陣後に徳川家康が焼け跡から業物(わざもの)の刀を探させ、焼き直させた刀の中の一振りです。
それほど家康が欲しがった名刀だったのです。
現在美術品として愛される刀剣のほとんどは贈答品として作られ、人を斬ったことのない刀です。
しかし、この鯰尾藤四郎は、織田信雄が秀吉に内通していた裏切り者の家老・岡田重孝を切り殺した刀だと、尾張徳川家の記録に残っています。
秀吉は、親しくしていた岡田重孝を殺されたことが自分への宣戦布告だと考え、織田信雄と徳川家康に対する1584年の小牧長久手の合戦が始まったということです。
つまり、鯰尾藤四郎は、戦のきっかけに関わった刀なのです。
乞食清光/加州清光
【江戸時代 加州金沢住著織部江藤原清光作 個人蔵】
「乞食」と呼ばれたのは、刀工が偏屈者で、乞食小屋に出入りして作刀したため。
その刀工による刀を「乞食清光」と呼びました。
実は、加賀金沢で室町時代から続く加州清光家には清光と銘する人物が複数いた上、偏屈者の刀工も「長兵衛清光」と息子の「長右衛門清光」の2代があり、刀に刻まれた銘だけではどの清光かは正確な判断はできないそうです。
新選組沖田総司が持っていた三本の刀のうちの一振りが清光でした。
1864年の池田屋事件における激しい乱闘で、沖田の清光の帽子と呼ばれる切っ先部分が折れ、修理に出された記録から「加州清光」もしくは「乞食清光」が沖田総司の刀だとしてファンにはよく知られています。
実戦的な刀で、いかにも斬り合いを仕事とした沖田らしい、切れ味重視の刀のチョイスです。
ただ、残念ながら沖田の愛刀がどの「清光」もしくは「乞食清光」だったのかは確証がありません。
沖田の他に加州清光を使っていた人物として東条英機が挙げられます。
今回ご紹介したのはいずれも変わった名前の刀剣たちですが、理由を知れば忘れることのない名刀ばかりです。