<出典:wikipedia>
織田信長は13人兄弟でしたが、その中で長生きできたのはたったの2人だけ。
ほとんどが戦死し、一人は不慮の死を遂げました。
生き残った信長兄弟2人のうち、1人は織田長益(おだながます/のちの織田有楽斎)といいました。
本能寺の変から逃げた長益
本能寺の変が起きたのは1582年。
このとき長益は36歳で、信長とは13歳違いの弟でした。
明智光秀の軍勢が本能寺を襲撃したときに、信長の嫡男である信忠は、宿舎であった妙覚寺から二条御所へ移りました。
圧倒的不利な状況の中でも信忠は戦い、その時に一緒にいた信長の末弟である長利(なるとし)は討ち死に、そして信忠自身は切腹して果てました。
長益もその場にいたのですが、甥の信忠が自刃したのを見ると、従者に「自分も自害するので柴を高く積み上げて火を点けろ」と指示。
ところが、従者がその柴を用意している間に、二条城を脱出してしまったのでした。
その後は秀吉の元で
どうやら長益は武芸にはあまり優れなかったようです。
もしも腕に覚えがあれば、武士としての有終の美を飾るため、最後まで二条城で戦うか切腹をしたかも知れません。
しかし、その選択肢は彼にはありませんでした。
その後の長益は、安土を経て岐阜へと逃亡。
その間に秀吉が明智光秀を討ち、天下を取りました。
織田長益は有楽斎(うらくさい)と号して出家し、豊臣秀吉のお伽衆(おとぎしゅう)の一人となりました。
お伽衆というのは秀吉の話し相手で、読み書きの不得意だった秀吉の耳学問の師として働いた者たちのこと。
頭がよくて機転がきかなければ勤まらない仕事でした。
おそらく長益は武よりも文の人だったのでしょう。
しかし、都の人々はそんなことを認めはしませんでした。
京に住む人々は、甥を自刃させておいて逃げ去った長益を嘲笑した唄をつくりました。
京童(きょうわらわ)の唄
織田の源五*は人ではないよ |
この唄によると、信長の嫡男信忠に自害をすすめたのは長益で、甥には自害させておいて自分だけ逃げていったということになっています。
先見の明と世渡りの上手さ
その後茶道に精をだした長益は、千利休の門弟十哲(高弟10人)の一人となりました。
秀吉に従いながら、家老の徳川家康ともうまくやっていた彼は、秀吉の死後、前田利家と家康が後継問題で対立した時には家康側につきました。
関ヶ原の戦いでは家康の東軍に属し、勝利の後に大和3万石を与えられ、屋敷で風雅な生活を送ったそうです。
大坂冬の陣では大坂城に戻って和睦工作に尽力。
一説には長益は徳川方のスパイだったとも言われます。
のちに大阪方の人々との関係が上手くいかなくなり、大坂城を出ますが、おかげで大阪夏の陣で命を落とすことも無く、京都で茶道に専念する生活を送りました。
こんな調子で生きた彼を「内股膏薬(うちまたこうやく/日和見で節操のない人のこと)」と陰口を叩く人も少なくなかったようです。
しかし、心の頑強さは持ち合わせていた長益こと有楽斎。
全くめげることはなく、世渡りしながら76歳まで生きました。
彼が京都建仁寺の正伝院に立てた茶室「如庵」は現在国宝に指定されています。
なんとも、さすがです。