敵(かたき)討ちは、武士が世に出てきた中世の頃から日本で慣習的に行われるようになったものです。
江戸時代になってからは詳しく制度化され、「血縁関係のある目上の親族のために行う復讐」として扱われました。
芝居や小説でも、人気のテーマです。
敵討ちのルール
鎌倉時代成立の「御成敗式目」を読むと、敵討ちが禁止されていたことが分かります。
実行しようとする人がいたためでしょう。
その後、理由のいかんを問わず双方を処罰するという「喧嘩両成敗」を補完する形で法制化が進められ、
江戸時代には以下のようなルールに落ち着きました。
1. 敵討ちを認めるのは父母や兄など目上の親族が殺害された場合(妻子や弟・妹は基本的に認められない)
2. 元々の加害者が行方不明になり、幕府や藩などの公的な警察権のあるものが加害者を処罰出来ない場合に限り、被害者の関係者に加害者の処罰を委ねる
3. 士分の者は主君の免状が必要。他国へ移動する場合には奉行所へ届け出、敵討帳に記載された上で謄本を受け取ること
4. 敵討ちを果たした者に対する更なる復讐の重敵討ちは禁止
5. 敵討ちされる側には正当防衛の返り討ちをすることが認められる
敵討ちの中には、
・家臣が主君のために行う敵討ち
・武士以外の者による敵討ち
などもありました。
実在した日本の代表的敵討ち
敵討ちのいくつかをご紹介しましょう。
【456年 眉輪王(まよわのおおきみ)の変 】(日本最初の敵討ち)
仁徳天皇の皇子・大草香皇子(おおくさかのみこ)と中蒂姫命(なかしひめのみこと)の息子・眉輪王は、幼くして父を亡くします。
そして安康天皇の皇后として再婚した母親の連れ子として育ちました。
しかし、7歳の時に両親の会話を盗み聞きし、本来の父親が養父である安康天皇によって殺されたことを知った眉輪王は、睡眠中の安康天皇を刺殺して逃亡。
『古事記』『日本書紀』にその記録が残る、日本最初の敵討ちとされています。
その後眉輪王は、安康天皇の弟である大泊瀬皇子(のちの雄略天皇)に焼き殺されてしまいました。
【1193年 曾我兄弟の仇討ち (日本三大敵討ちその1)】
源頼朝が行った富士の巻き狩り(四方から獣を追い詰める方法の狩り)の際に、父親の仇・工藤祐経(くどうすけつね)を見つけた曽我祐成(すけなり)・時致(ときむね)兄弟が討った事件。
仇討ちの模範とされた事件です。
兄は騒ぎを聞きつけてきた武士たちに討たれ、弟は取り押さえられました。
弟の時致は仇討ちに至る経緯を源頼朝に説明し、頼朝も一時は助命を考えたのですが、最終的には斬首となりました。
これは当時の法であった「御成敗式目」という法律に従った処分でした。
【1634年 鍵屋の辻の決闘 (日本三大敵討ちその2)】
敵討ちの現場が伊賀上野の鍵屋の辻でした。
岡山藩主池田忠雄(ただかつ)が寵愛していた小姓・渡辺源太夫に横恋慕した藩士・河合又五郎が、フラれた腹いせに源太夫を殺害したのが発端です。
恋人を殺された藩主・池田忠雄が病死したため、その主君の遺言に従って、兄による弟のための異例の仇討ちとなりました。
剣が未熟な兄の数馬が剣術師範・荒木又右衛門に助太刀を頼んで臨みます。
仇を討つべき数馬も仇の又五郎も双方剣術が未熟なために5時間も斬り合ったのち、又右衛門がとどめを刺したとのこと。
男同士の恋愛沙汰が原因という決闘でしたが、本懐を遂げた数馬と又右衛門は人々の賞賛を浴びています。
【1702年 赤穂事件 (日本三大敵討ちその3)】
日本で最も有名な仇討ちです。
江戸城松の廊下で播磨国・赤穂(あこう)藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、高家筆頭(儀式を執り行う幕府役職のトップ)の吉良上野介(きらこうずけのすけ)を斬りつけ、切腹・お家取りつぶしとなりました。
それを不満とした大石内蔵助(くらのすけ)以下47名の元赤穂藩士たちが上野介を討ち取りました。
これは敵討ちではなく、家臣が主君のために起こした復讐だという意見もあります。
敵討ちの廃止
日本人はどうも敵討ちの話しが大好きです。
上記の日本三大敵討ちは、いずれも歌舞伎や浄瑠璃、小説などの題材となって人気となりました。
とはいえ、殺人が殺人を呼ぶこの行為、明治時代の1873年には敵討禁止令が発布され、なくなっていきました。