<出典:wikipedia>
新渡戸稲造といえば、日本人にとっては旧・5000円札にもなった、近代日本を代表する人物。
著書である『武士道』は、アメリカの大統領であるルーズベルトも愛読書であることを公言した、世界的なベストセラーでした。
ただ、5000円札が樋口一葉にバトンタッチしてから、新渡戸稲造について知らない日本人が増えたともいわれているようです。
新渡戸稲造といえば『武士道』ですが、
「国連の輝く星」と称賛をあびるほどの国連事務次長でもあり、後半生を世界平和のために捧げたことも大きな功績です。
今回は、今だからこそ知りたい、新渡戸稲造の生涯をご紹介します。
札幌農学校の「アクチーブ」から「モンク」に成長
陸奥国といわれていた盛岡藩。
ここで藩主につかえていた新渡戸十次郎の三男として誕生したのが新渡戸稲造でした。
産まれたのは江戸時代末期である1862年でした。
新渡戸稲造の祖父が江戸で材木業に成功して豪商となったため、新渡戸家の生活はとても豊かなものでした。
自宅には西洋から持ち込まれた珍しいものがたくさんあり、幼少のころから海外文化に興味を持つきっかけになりました。
また、新設された東京英語学校で英語を習得することになり、熱心に勉強にはげんでいました。
実家にいたときに、明治天皇が新渡戸家を訪問しにきました。
このとき新渡戸家の生業である農業にいそしむようにといわれたことで、新渡戸稲造は北海道の札幌農学校に向かいました。
札幌農学校の二期生になった頃は、血気盛んだったため英語のアクティブからアクチーブとあだ名をつけられるほどでしたが、やがてクリスチャンとなって落ち着きを見せるようになってからは、修道士を意味するモンクといわれるようになりました。
アメリカ留学で運命の出会い!国際結婚
札幌農学校を卒業してから、たくさんの卒業生たちがそうしたように、北海道庁に就職して農政にたずさわりました。
さらに農政について研究したいと東京帝国大学に入りましたが、農学校よりもレベルが低いことに失望してすぐに退学してしまいました。
そして、私費留学生としてアメリカに渡りました。
アメリカ留学時代に、新渡戸稲造はキリスト教信者の集会でメアリー・エルキントンという女性と知り合いました。
日本人女性にはない積極性で新渡戸稲造にアプローチして、ふたりの交際がはじまったといわれています。
しかし、それぞれの両親に猛反対。
新渡戸稲造は説得に説得を重ねて結婚にこぎつけました。
アメリカ留学中。
新渡戸稲造は札幌農学校の教授に任命され、国費留学生となってドイツで勉強することになり、ハレ大学の農業経済学博士号を取得しました。
メアリー・エルキントンと結婚したのは、その帰途に立ち寄ったアメリカでのことでした。
ベストセラー『武士道』に込められた平和への願い
札幌農学校の教授となった新渡戸稲造は、専門である農業関係の講義ばかりでなく、外国語も担当しており、教育者として多忙を極めていました。
そして過労のために体調を崩してしまい、新渡戸夫妻はカリフォルニアで療養生活を送ることになりました。
カリフォルニアでの生活のなかで、新渡戸稲造はベストセラーとなる『武士道』を書き上げました。
武士道は日本語で執筆されたものが翻訳されたわけではありません。
はじめから英語で執筆されていました。
初版が発行されるやまたたくまに話題となって、各国で翻訳版が販売されるようになりました。
武士道について英語文化圏のひとでもわかりやすいよう、騎士道と比較しながら「最善の勝利というものは、一滴の血を流すことなく得られた勝利である」と、日本人の道徳観を説明しました。
健康を取り戻してからは台湾総督府の財政再建のために奔走し、帰国後は現在の京都大学、東京大学の教授として教育者に立ち戻ります。
そして、『武士道』の著者として知られていた新渡戸稲造は、国際連盟設立に事務次長として迎えられることになりました。
この事務次長としての功績から、「国連の輝く星」といわれています。
国連退官後も世界平和のために各地を飛び回りましたが、滞在していたカナダで亡くなってしまいました。
軍事国家として世界から孤立していった日本でも、あきらめずに立ち向かっていた新渡戸稲造こそが、本物の武士だったといえるでしょう。