新元号「令和」はどこから来たか。純粋に日本の出典ではない!?

<出典:wikipedia

2019年(平成31年)4月1日。
翌5月1日の新天皇即位に併せて改元される新しい元号の名前が「令和(れいわ)」と発表されました。
新元号はおおむね歓迎され、その出典やゆかりの地なども話題になっています。

「令和」の出典と意味

「令和」は「人々が美しく心を寄せあうなかで文化が生まれ育つという意味が込められている」、英語では「Beautiful Harmony(美しい調和)」だと説明されています。

248回目となる今回の改元。
日本史上初めて中国の書物からの出典ではなく、国書である『万葉集』から選ばれました。
『万葉集』は今から約1300年前の780年頃に成立した、4500首ほどの歌が集められた日本最古の歌集です。
天皇や貴族たちの歌だけではなく、防人、農民そして遊女までの庶民たちの歌まで収められたものでした。
「身分にかかわらずに純粋に歌の良さ」で選ばれた素晴らしいコンセプトの歌集なのです。

令和という元号は、『万葉集』の巻五「梅花歌三十二首」の詩歌の背景や趣旨を説明する「題詞」部分、つまり序文から選ばれた文字です。

于時初春令月 氣淑風和

時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ

時は初春のよい月、空気は美しく、風はなごやか

梅の花を見て歌を詠む宴のときの詩歌を集めた32首の前書きとして書かれたものでした。
しかし、実はこれに似た漢文が中国の詩文集にあると指摘されました。
『万葉集』よりも古い780年頃成立の中国の詩文集である『文選』です。

2つの該当部分を較べてみましょう。

「初春令月、気淑風和」(『万葉集』)
「仲春令月、時和気清」(『文選』)

似ていますね。

『万葉集』の和歌は全て万葉仮名で書かれており、それは日本語の音を表わす漢字の当て字で、漢字自体に意味はありません。
しかし、「令和」の出典となる部分は、歌の前に漢文で書かれた説明文です。
国書『万葉集』ではありますが、漢文の部分に中国からの影響があるのは当然でしょう。

『文選』は当時の日本の貴族たちが教養として誰もが学ぶ漢書でした。
歌人たちに(この場合は序文の作者に)影響がゼロではないのです。

東京大学名誉教授で、国文学研究資料館長のロバート・キャンベル氏は「北東アジアは一つの漢字文化圏。元号の典拠が国書か漢籍かと対立的にみるべきではない」(2019年3月19日朝日新聞朝刊)と述べています。

古代から現在まで日本が何ら他国の影響を受けずに文化を育んできたわけではありません。
そこには当然他国と影響しあい、交流しあって育んだ文化があります。
今回令和で話題になった『万葉集』の序文は、『文選』の知識を持った当時の歌人たちが影響を受けながら独自に紡ぎ出した言葉なのです。
日本は海外からの知識を取捨選択して独自に新しい物を作り出すのがうまい国です。
令和もその一つと考えてよいではありませんか。

身分にこだわらずに優れた歌を集めた『万葉集』。
この国書を新しい元号の出典としたことを高く評価されるべきです。

令和はどこから?

さて、令和と関連してもう一つ話題になっているのは、該当する序文が説明する梅の歌が歌われた会場はどこか、ということです。

当該の梅の宴の前書き部分を書いた人物は、諸説ありますが、おそらく歌人で大宰府の長官であったの大友旅人(おおとものたびと)ではないかと言われています。
万葉集の編者である大伴家持(おおとものやかもち)の父親です。
梅の和歌が詠われた宴は、福岡県太宰府の旅人の邸宅で行われたと記録にあります。
つまり、「令和」は大友旅人の家の庭で生まれた言葉なのです。

旅人の邸宅の所在地は正確にはわかっていません。
候補地は3箇所あり、坂本八幡宮周辺、築山東地区官衙跡、大宰府条坊跡周辺となっています。
その中では、坂本八幡宮周辺である可能性が高いと言われており、坂本八幡宮は新たな観光地として人気を集めています。

元号の使用については賛否両論あり、実務的に見れば国際的な西暦のほうが使い勝手は良いに決まっています。
和暦から西暦に換算する必要に迫られることもあり、手間もかかります。
しかし、世界中で元号を持つ国は、今はもう日本だけです。
日本が天皇と同様に元号を継承し続けることは、世界中のどの国も真似して追いつくことができません。
それって、すごいことだと思いませんか?

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