社会にでると、仕事で「使えない人」に出くわすこともあるでしょう。
陰で「給料泥棒」などと言われたりする人たちです。
そんな人は時代を問わず存在するようで、平安時代にもいました。
彼の名は、藤原顕光(ふじわらのあきみつ/944年-1021年)。
最高の家柄・藤原顕光
顕光は平安中期の公卿です。
藤原氏の中でも主流と言われた藤原北家の出身。
しかも父親は関白太政大臣になった藤原兼遠(かねとお)で、顕光はその長男です。
最終的に顕光は従一位・左大臣にまで上り詰めた人物でした。
これだけを見ると、身分も家柄も申し分ない貴族のようですが、唯一不自由していたのが仕事の処理能力でした。
父親の死後、長男の顕光は為す術もなく、彼の叔父・兼家と従弟の道長に権力を移行させてしまいます。
仕事上の数々の失態によって顕光は笑い者となり、それを恨んで死後には悪霊となって道長の家系に祟りをなしたと言われています。
顕光の何がまずかったのか?
顕光の一体何がまずかったのでしょう?
彼は昇進もしています。
能力がないなら、なぜ昇進したのでしょうか。
【昇進した本当の理由】
父亡き後、顕光の昇進は止まり、後発である道長を含めた兼家の子供たちに追い抜かれてしまいます。
でも顕光の弟・朝光は順調に昇進し、道長たちとも上手くやっています。
父親の死だけが彼の昇進ストップの理由ではなかったのです。
やはり能力の問題だったのでしょう。
ところが、顕光もようやく昇進して権大納言となりました。
995年。
都に流行した疫病のせいで、弟・朝光を含む上位の公卿たちが次々と病死し、関白・藤原道隆も酒が原因で死亡。
突然朝廷のポストががら空きになりました。
顕光は、棚ぼた式に昇進を果たしたのです。
その後、道長が政権をものにして左大臣になり、従兄の顕光も右大臣となりましたが、実際のところ権力は全て道長のものでした。
【政務ができない顕光】
決して不真面目ではありませんが、何をやっても失敗ばかりの顕光は、無能で有名でした。
藤原家嫡流、当代一の学識者・藤原実資(さねすけ)は、彼の日記『小右記』に「出仕以来、万人に嘲笑され通しだ」と記録しています。
以下はほんの数例です。
・当時、朝廷一のキレ者能吏・藤原行成(ふじわらのこうぜい)は、資料がなく、経験のある年配者しか知らない過去の式典について、最後の手段として経験者(のはず)の顕光に話しを聞きに行ったが「やっぱり何の参考にもならなかった」らしい。
・無能さを知る道長が婉曲に断っても重要な式典を仕切る、とゴリ押しして実行した顕光。
式次第を書いたカンニングペーパーを用いてもなお、手違いや失敗だらけとなり、公卿らの嘲笑を買った。
藤原実資は「失敗をいちいち書いたら筆がすり切れる」、道長は「至愚之又至愚也(愚の骨頂)」と罵倒した。
・顕光の娘元子が一条天皇の女御として入内し、子の出産を父娘で大騒ぎしたのに想像妊娠だったため2人とも笑い者になってしまった
・式典の正式文書の作成指示を間違い、道長から罵倒された
こんな調子の顕光が主催する会議は軽んじられ、参加者が集まらなかったそうです。
藤原顕光の優しさと怨み
式典の多い朝廷の仕事は苦手でも、顕光は真面目でした。
また、火事で家を失った彼の家司のために、自分の屋敷の一部を住居として与えるなど優しい一面も持っていました。
娘・延子は、次期天皇になる東宮・敦成親王の妻となり、親王との間に息子も生まれました。
なんと顕光には、天皇の外戚になるチャンスがあったのです。
しかし親王は、東宮の地位を辞退して、顕光の娘・延子と息子の敦貞親王を捨て、もう一人の妻である道長の娘・寛子の元へと行ってしまいました。
夫を奪われた延子は絶望のあまり病死。
顕光はこの事件のために一夜にして白髪になり、寛子を娶らせた道長を恨んで、道摩法師に呪詛させたといいます。
顕光の死後、道長の娘たちが続けて亡くなったのは、顕光の祟りだとされ、顕光は悪霊左府と呼ばれました。
生前も死後も心の安まるときがなかった顕光、気の毒ではあります。