北海道神宮を中心とした「円山」には、有名なレストランやおしゃれなカフェがたくさんあります。
しかし150年前には、丸くてこじんまりしていた小山があるばかりでした。
明治時代になって、札幌へ足を踏み入れた開拓者たちは、山の見た目から「円山」と名付けました。
そして、開拓三神となる「大国魂神」「大那牟遅神」「少彦名神」のご神体を、北海道神宮の前身にあたる札幌神社を設営して3柱を安置しました。
北海道神宮には、島義勇の銅像があります。
ですが、初詣に訪れた札幌在住者でさえ、島義勇とはどのような人物なのか、知らないことがほとんどです。
今回はそんな島義勇についてご紹介します。
佐賀藩のエリート・島義勇
明治政府で薩長土肥の肥前として国政を担うことになる佐賀藩には、「佐賀の七賢人」とよばれる男たちがいました。
そのひとりが北海道の開拓に貢献した島義勇でした。
薩長土肥では目立たない存在の佐賀藩ですが、江戸時代から長崎を管轄にしていたことから、最先端技術を取り入れることができる特殊な環境にありました。
佐賀藩は、国内初となる反射炉を完成させたばかりでなく、国産第一後の蒸気船の製造などもおこなっていました。
佐賀藩士の嫡男であった島義勇は、藩校・弘道館に在籍し、諸国遊学をして藤田東湖にも教えを受けているという経歴の持ち主で、
藩政改革に乗り出していた藩主・鍋島直正に重用されるようになりました。
その後、箱館奉行の側近に抜擢され、蝦夷地から樺太までを調査したことが、北海道での活躍に繋がっていきます。
まもなく勃発した戊辰戦争では、島義勇は佐賀藩の海軍軍艦として活躍しました。
最新鋭の設備を揃えて戊辰戦争にのぞんだ佐賀藩の活躍が評価され、新政府では藩主・鍋島直正が蝦夷地開拓督務に任命され、
蝦夷地に精通してる島義勇が開拓使判官となりました。
開拓者としての挑戦
神祇官は開拓使判官の島義勇に、ご神体を預けました。
東京から函館まで、函館から札幌まで、島義勇はご神体を背負って移動したといわれています。
ちなみに、現在は大規模な北海道神宮ですが、当時は小規模な社殿が建てられただけのようです。
島義勇は、平安京にならった碁盤の目に整理された街並みを提案。
現在の北海道庁がある南側は官庁街に、現在のすすきのがある北側は住宅地にするという構想も打ち出しました。
島義勇は、「五州第一の都(世界一の都市)にする」という目標を掲げ、開拓者として挑戦したのです。
しかし、札幌の開拓は難航しました。
入植直後から飢饉の対応を迫られ、さらに厳しい寒さと降り積もる雪に事業にも莫大な予算と労力を要してしまい、一年分の予算が80日もしないうちに底をついてしまいました。
島義勇は、上司である開拓使長官・東久世通禧に増額を訴えましたが、予算超過の責任を指摘され解任。
その後、札幌の地を踏んだ東久世が想像以上の開拓事業に感嘆し、そのまま計画を引き継いぎました。
熱い男の知られざる最期とは
開拓使判官を解任されてから、島義勇は秋田県の初代知事となりましたが、
大事業の構想に相次ぐ反発を受けて退官を余儀なくされてしまいました。
しかし札幌の都市計画といい秋田の大事業といい、結果的には実現されており、優秀な政治家であったことが分かります。
佐賀へと帰京した島義勇を待っていたのは、新政府に不満を持つ旧藩士たちの歓迎でした。
憂国党の党首になった島義勇は、新政府でのよりどころをなくした江藤新平とともに佐賀の乱を起こしました。
フロンティアスピリットをたぎらせ、飢饉に苦しむ移住者を救済しながら、厳しい環境で札幌の原野を切り開こうとした島義勇。
後にその功績が評価され、北海道神宮のみならず札幌市役所にも銅像が設置されています。
しかし、地元・佐賀では評価されていません。
佐賀出身の島義勇の最期が、朝敵の汚名による処刑だったのです。
現在の札幌は五大都市にあげられるほど発展しています。
島義勇のイメージにしたがって作られた札幌の中心地は、碁盤の目になっており、防風林となった大通公園をはさんで北側は政治・経済の中心として発展しています。
北海道神宮に行った際は、焼きたての焼き菓子「判官さま」をかじりながら、島義勇の人生を振り返るのも面白いかもしれませんね。