京都・清水寺の参道を下っていくと、美しい石畳の道に出ます。
高台寺があるので「高台寺道」といわれていましたが、近年になって「ねねの道」として整備され、京都東山エリアの観光名所としてにぎわうようになりました。
「ねね」とは豊臣秀吉の正妻である「寧々」のことです。
北政所、高台院とよばれることもあります。
寧々は、未亡人となってからしばらくして、この高台寺で余生を送りました。
女性関係が派手であったことでも知られる豊臣秀吉ですが、その一方で恋愛結婚をした寧々は特別な存在でした。
才色兼備で内政にも関与。
それなのに性格もよくて、敵味方関係なく慕われる女性でした。
今回は、豊臣秀吉最愛の妻・寧々の才色兼備っぷりと性格のよさがわかるエピソードをご紹介していきます。
イレギュラーな恋愛結婚!豊臣秀吉の一目惚れ
尾張国ののどかな昼下がり。
主君・織田信長にしたがって鷹狩りに出かけていた木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は、
道すがら立ち寄った浅野長勝の屋敷でお茶を運んできた娘に目を奪われました。
当時・14歳だった寧々に一目惚れした木下藤吉郎は、アプローチを開始しました。
運命の出会いの瞬間に立ち会った織田信長は、意外にも木下藤吉郎を後押ししています。
信長から見ても、寧々は素晴らしい女性だと感じられたようです。
木下藤吉郎が出世をするためには、寧々の存在が必要だとも判断したのでしょう。
アプローチによって寧々が結婚を承諾してくれたまでは良かったものの、彼女の周辺が猛反対。
寧々は尾張国の武将の娘で、叔母の嫁ぎ先である浅野家の養女となっていました。
実父母・養父母どちらも反対していましたが、寧々の実兄のとりなしで、どうにか結婚することができました。
結婚式は質素なもので、薄縁に座って固めの杯を飲み交わすだけにとどまったそうです。
理由は、夫の木下藤吉郎の家格が、浅野家の養女である寧々よりも低かったから。
ですが恋愛結婚だった二人は、それでも満足だったようです。
戦国武将たちに一目置かれる存在
寧々は戦国武将たちにとっては「母親」ともいえる存在で、とても慕われていたことが分かっています。
豊臣秀吉のもとを訪ねてくる戦国武将たちへの配慮は徹底していました。
相手を気遣いながら、気分良くもてなしました。
また、戦国武将の妻たちともすぐに打ち解けました。
女性と女性は張り合いそうなイメージもありますが、寧々にいたっては友達になって交流を持ち続けてしまうのでした。
そんな彼女のことを自分の妻から教えられた戦国武将たちが、好印象を抱くのも当然でしょう。
豊臣秀吉(木下藤吉郎)と正妻・寧々には子どもがいませんでした。
しかし、彼女のもとにはたくさんの養子がいました。
親戚から迎えた子もいれば、政略として戦国武将から引き取った子もいました。
そんな子どもたちに、寧々は惜しみない愛情を注いで養育しました。
そのため、成長して立派になった子どもたちばかりでなく、その親たちからも素晴らしい女性だと言われるようになりました。
一方で、豊臣家の内政を取り仕切る手腕は、戦国武将たちも脱帽するほどとなりました。
豊臣秀吉も寧々を信頼して重要な役割を任せることが、よくありました。
寧々と秀吉と政治で意見が対立し、一目もはばからず尾張弁で激しい口論をしたという逸話も残っています。
豊臣家滅亡後も特別な存在だった
豊臣秀吉の主君である織田信長が本能寺の変で討たれてから、織田家が衰退してしまったように、
豊臣家も衰退の一途を辿っていきました。
徳川家康に容赦はありませんでした。
ですが、徳川家康は寧々のことだけは特別扱いしています。
豊臣秀吉の霊魂をなぐさめるために高台寺を設立したいと相談されたときは、惜しみない援助をしました。
これには、嫡男・秀忠の存在も関わっています。
政治的な理由から、幼い秀忠は豊臣家の人質になっていたのです。
ですが、この人質生活は辛いものではありませんでした。
人質たちの世話をする立場にあった寧々が、もてなしてくれていたのです。
幼少期に人質として苦労をしてきた徳川家康にとっては、息子によくしてくれた寧々をないがしろにすることなどできなかったのかもしれません。
高台寺で余生を送っていた寧々のもとを、成長した秀忠はよく訪ねていました。
いうまでもありませんが、江戸幕府第二代将軍となる徳川秀忠です。
寧々は将軍職に就いた秀忠にサポートされて、生活に困ることもなく高台寺で息を引き取りました。
戦国時代を生きた人々の心の支えとなった寧々は、その人柄から様々な人たちに支えられて、充実した人生を生きたことでしょう。