北蝦夷地開拓のロマン。新選組隊士・前野五郎のフロンティア・スピリット!

千島列島の択捉島の沿岸。
オホーツクの荒波が打ち付けます。
波しぶきを浴びながら振り返った前野五郎を銃弾がつらぬいたのは、
千島議会の一員として、択捉島の海岸を調査していたときのことでした。

徳島藩を出奔した前野五郎は、新選組隊士として天満屋事件でも実績を残しており、幕軍が劣勢に追い込まれた鳥羽・伏見の戦いでも生き残りました。
松前藩にゆかりある永倉新八の靖共隊として関東地方で転戦していましたが、突然樺太を目指すことになりました。

前野五郎はなぜ戦線を放棄してまで樺太を目指したのか。
どうして千島列島の択捉島で命を落としたのか。
今回は新選組隊士の経歴を持つ北蝦夷地の開拓者・前野五郎をご紹介します。

徳島藩を出奔して新選組隊士になった

幕末。
テロリストによって京都の治安は荒れていました。
そこで新選組が、テロリストを取り締まる京都府警のような役割をしていました。

新選組では積極的に浪士を採用しており、徳島藩から京都に出てきた前野五郎も、隊士となって治安維持に務めました。
現存する資料から推測すると、前野五郎は1845年に誕生しており、1868年には天満屋事件に参加しているため、満年齢22歳のときには新選組に加入していたということが分かります。

前野五郎は、天満屋事件で三番隊組長・斎藤一にしたがって紀伊藩士・三浦休太郎を護衛しながら戦いました。
それからほどなくして鳥羽・伏見の戦いが勃発。
新選組は拠点である京都を離れて転戦しました。
新選組隊士の戦死・脱走が相次ぐなか、前野五郎は死線を潜り抜けていきました。

戊辰戦争してる場合じゃない!樺太開拓に参加

樺太赴任経験がある岡本監輔は、蝦夷地を虎視眈々と狙う大国・ロシアに危機感を抱いていました。
現地を視察した岡本監輔は、戊辰戦争で混乱している日本列島に、
「どうして蝦夷地がロシアから脅威にさらされている状況に危機感を抱かないのか、国内で争いごとをしている場合ではない」
と投げかけます。
このとき、新選組から分離した靖共隊の一員になっていた前野五郎は、岡本監輔のことを知るやいなや、戦線を離脱して一人でクシュンコタンの公儀所を目指しました。
箱館府の樺太担当というポジションにあった岡本監輔は、同志ともいえる前野五郎を歓迎。
共に現地の開拓事業を進めていきました。

数カ月後。
ロシア艦隊が上陸して樺太を支配を始めました。
前野五郎と岡本監輔が抗議しましたが、聞き入れられません。
この報告に、新政府は開拓使を設置することにしました。
そして岡本監輔を樺太判官に任命し、ふさわしい権限を与えました。

こうして政府の斡旋で移民団がやってきましたが、農民・漁民ばかりであったため、ロシアはさらに実効支配を強化しました。
そのうえ開拓次官となった黒田清隆が樺太開拓ストップを提案したため、岡本監輔は辞任となってしまいました。

札幌で大儲け!私財はすべて千島列島開拓に!

1871年。
樺太判官・岡本監輔とあわせて辞任した前野五郎は、徳島へ帰郷せずに札幌を目指しました。

札幌開拓者たちのエンターテイメントは、すすきの遊郭で遊ぶことでした。
前野五郎はなんと、この遊郭経営者として大成功しました。
しかし、樺太で実現できなかったフロンディア・ドリームを掴んだように見える前野五郎ですが、樺太での開拓の日々と心残りを忘れることはありませんでした。

賑わいを見せるようになった札幌で、前野五郎と岡本監輔が再会したのは、樺太開拓から20年後のことでした。
千島開拓に乗り出した岡本監輔は、そのための組織である千島義会を設立したので一緒に開拓をしないかと誘いました。
前野五郎はこれに応えました。
羽振りがよかった遊郭をたたみ、全私財を開拓事業につぎ込んで、千島列島に渡り、
千島列島の沿岸調査のため択捉島に上陸しました。
しかし、このとき、丸太橋から足を滑らせて川に転落し、流されているうちに手持ちの猟銃が暴発して亡くなったといわれています。
ただ、ロシアの関係者に銃殺された可能性も高く、択捉島の海岸を調査中に撃たれた様子が想像されます。

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