「おもしろき こともなき世を おもしろく」高杉晋作の辞世の句に込められた人生観

「おもしろき こともなき世を おもしろく」

高杉晋作の辞世の句を「いかにも高杉さんらしい」と伊藤博文あたりはいうかもしれません。
伊藤博文は、高杉晋作のことを
「動けば雷電の如し、発すれば風雨の如し。衆目騒然として正視する者なし。」
(行動すれば雷電のようで、言葉を発すれば風雨のようである。ほとんどの人間はただ驚くばかりで、正視することができない)
と振り返っています。

現代人にとっての高杉晋作のイメージは「愉快痛快に生涯を駆け抜けた男」といったところでしょうか。
ですが、「おもしろきこともなき」というように、けっして高杉晋作の人生はおもしろいことばかりではありませんでした。

今回は、高杉晋作の生涯を追いながら、辞世の句に込められた人生観をひもといていきます。

おもしろそうな高杉晋作の生涯

折り畳み式の三味線を持ち歩き、ところかまわずかき鳴らす。
そうかと思えば、今度は和歌を読んでいる。
そして明るいうちから酒をたしなんでしまう。

そんな一面を持つ高杉晋作ですが、松下村塾では四天王にあげられています。
長州藩内では謹慎処分でありながら政治の表舞台に呼び戻されるなど、その政治・軍事能力は、当時から高く評価されています。
また、抜きんでた行動力の持ち主であったため、不可能だといわれることを実現してしまう男でもありました。

高杉晋作は長州藩の萩城下で誕生しました。
そして松下村塾で吉田松陰の指導を受けました。
安政の大獄で吉田松陰が処刑されてからは、高杉晋作をはじめとした松下村塾の塾生たちは、それぞれ師の遺志をついで尊王攘夷運動に傾倒します。

高杉晋作は、長州藩の軍事力増強のために、前代未聞の有志による奇兵隊を創設。
下関戦争の講話でも彦島の咀嚼を認めることはありませんでした。
さらに、不利な状況にも関わらず功山寺で挙兵、藩論を倒幕に転換しました。

第二次長州征討では海上での指揮をとりましたが、この頃からすでに肺結核をわずらっており、それからは下関で療養生活を送ることになりました。
そして「おもしろきこともなき世をおもしろく」と辞世の句を遺して亡くなりました。

おもしろいだけではない高杉晋作の心のうち

おもしろいだけではない、それでもおもしろく生き抜いた高杉晋作の心のうちは、吉田松陰とのやりとりを振り返ると見えてきます。

安政の大獄によって投獄されていた吉田松陰ですが、江戸遊学をしていた高杉晋作と頻繁に手紙でやりとりをしていました。
そのなかにはいわゆる人生相談のような内容もみられます。
そのうちのひとつが、男子のあるべき死に方についてです。

死というものを好むべきではないが、かといって憎むものでもない。
正しい生き方をすれば、心が安らかだといえるときが訪れる。
それこそが死ぬべきときであろう。

吉田松陰は二十歳をこえたばかりの高杉晋作に、このような言葉を返しています。

万物元来始終有り。
人生況や百年の躬少なし。
名を競い利を争う営々として没す。
識らず何の娯しみか此の中に存せん。【現代語訳】
100年生きる人間などほとんどいないというのに、どうして人々は名誉を競ったり、利益を争ったりすることに執心するのだろうか。
そこにどのような楽しみがあるのかわからない

その後、植民地としてイギリスに支配されている清国を目の当たりにした高杉晋作。
名誉を競うこともなく、利益を争うこともなく、日本を守るために奔走しました。

それでもおもしろい生き方ができた29年の人生

下関の櫻山のふもとに東行庵をかまえた高杉晋作は、そこで療養生活を送ることになりました。
高杉晋作がしたためた上の句に対して、野村望東尼が下の句をしたためるというやりとりを、不自由な生活での楽しみとしていたようです。
高齢である野村望東尼が階下にいたため、愛人おうのが往復をしていました。

野村望東尼は勤王家であり女流歌人でもある人物です。
恩人である野村望東尼が窮地におちいったとき、高杉晋作が助け出したことがきっかけで、東行庵での療養生活を支えるようになりました。

おもしろきこともなき世をおもしろく

という上の句を渡された野村望東尼は、

すみなすものは 心なりけり

と返しました。

面白くもない世の中を面白くしてきた、という高杉晋作に対して、つまりすべては心の持ちようだ、と返したのです。
これを読み「おもしろいのう」といって、高杉晋作が息を引き取ったというエピソードもまことしやかにささやかれています。

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