京都御馬揃え(きょうとおうまぞろえ) 1581年4月1日に織田信長が京都で行った大規模な観兵式・軍事パレードのこと |
15代将軍足利義昭を追放して室町幕府を崩壊させた信長。
その後、勢力は北陸や中国地方に行き渡り、長年敵対していた大坂(石山)本願寺とも和解しました。
近隣の抵抗勢力は毛利や武田くらいで、彼の天下統一は目前に迫っていました。
そんな中で京都御馬揃えが行われました。
理由は、信長が正親町天皇(おおぎまちてんのう)に譲位を促すためだった、という説がありますが、明確ではありません。
一般的には、天下統一目前の織田信長が、周辺大名を牽制し、力を内外に誇示するパフォーマンスだったという説が有力です。
そのころはまだ、征夷大将軍であった足利義昭や天皇家にも、力を見せる必要があったのでしょう。
パレードのルート
この馬揃えの準備を任されたのが、織田家臣であり、朝廷とも繋がりがあった明智光秀でした。
光秀は正親町天皇の臨席を要請し、近衛前久(さきひさ)ら公家衆の参加を実現させました。
そして内裏の東側に幅109メートル、長さ872メートルの馬場や、天皇が観覧するための豪華な御座所(おましどころ)が造られました。
馬揃えのルートは、起点が本能寺。
そこから室町通りを北上し、一条通りを曲がって入った内裏の馬場が終点です。
本来、内裏の東側の陣中は、牛車を乗り入れる許可を持たない者は、馬を含む一切の乗り物で入ることを禁じられていましたが、
この時ばかりは許可されたようです。
パレードの様子
午前8時から始まったパレードは午後2時まで続きました。
参加者は、信長とその一門、家臣の武将たち、さらに騎馬の心得がある公家たちでした。
馬場への入場の一番手は、丹羽長秀。続いて蜂屋頼隆・明智光秀・村井貞成らがそれぞれ国衆を従えて入場。
その後ろを織田の一門衆、そして近衛前久ら公家衆、旧幕臣衆、信長の馬廻り衆、小姓衆そして柴田勝家率いる越前衆、さらに弓衆100人が続きます。
そして、最後は信長本体が飾りました。
行進の参加者は総勢6万人にのぼりました。
武将たちは幟(のぼり)や旗指物(はたさしもの)をはためかせ、華麗な陣羽織をまとって見物客を魅了しました。
ただし、最初は15騎くらいの悠々とした行軍でしたが、時間がかかりすぎたため、40~50騎入り乱れて走るハメになり、
爆竹などを派手に鳴らしながらの大騒ぎとなったそうです・・・。
パレードにおける信長
注目はやはり信長のファッションでしょう。
黒馬に乗った信長は、頭には唐冠(とうかんむり)、白地の唐草模様に紅梅をあしらったものに唐綿の小袖を重ね、紅緞子(どんす)に桐唐草の肩衣(かたぎぬ)と袴の姿。
ヤクのしっぽの腰蓑に、金銀飾りの太刀・脇差を差し、手には白革に桐の紋の入った手袋を着用して梅の生花を挿しました。
センスがいいのか悪いのか分かりませんが、赤と金のきらきらと派手な衣裳だったことはまちがいなさそうです。
さて、このイベントに欠けていたのが、派手好き羽柴秀吉。
当時は中国攻略に忙しく、不参加でした。
非常に残念がった秀吉は、せめて、参加者の当日の出で立ちを知りたいと、信長の側近に当日の様子を尋ねているところがなんだか微笑ましいです。
このパレードの観客は約20万人。
信長の本当の目的はともかく、庶民にとってまた当時の武家たちにとっても、忘れられない一大イベントだったに違いありません。