<出典:wikipedia>
織田信長や豊臣秀吉の時代について知ろうとすると、非常によく出くわすある外国人の名前があります。
それが、ルイス・フロイス。
その名に覚えのある方もいるでしょう。
しかし、ふと考えると、疑問になりませんか?
なぜ彼は、日本の歴史に名を残しているのでしょうか?
宣教師ルイス・フロイス
ルイス・フロイス(1532年~1597年)は、ポルトガルはリスボン出身のカトリックの司祭。
世界各地への宣教に努めたイエズス会という男子修道会から派遣されてきた宣教師でもありました。
1563年。
31才のルイスは横瀬浦(現長崎県西海市北部の港)に上陸。
日本語を学び、布教活動を開始しました。
1565年には京都に入り、室町幕府第13代将軍・足利義輝に保護されながら布教活動に励んでいました。
のち、義輝が永禄の変で殺害されると、フロイスも三好氏に追われて京都を離れ、摂津国・堺に避難しました。
1569年。
織田信長と初めて対面する機会があり、信長から畿内での布教を許可されました。
信長とは意外と話しが合ったようです。
1580年。
イエズス会の巡察師であるアレッサンドロ・ヴァリニャーニの来日の際には通訳をしました。
やがて、フロイスは宣教の第一線を離れて、日本におけるイエズス会の活動記録を残す使命を得ました。
それ以降。彼は戦国時代の日本や織田信長などの印象を細かく記載し、これがのちに『日本史』となりました。
信長の死後、豊臣秀吉の時代となりました。
当初信長のイエズス会政策を継承していた豊臣秀吉でしたが、やがてその勢力に危機感を感じ、1587年をに伴天連追放令を発令。
フロイスは畿内を去って長崎へと移動しました。
1590年に天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日した際には、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見しました。
その後、マカオに渡ることもありましたが、基本は長崎で過ごし、1597年に長崎にて死没しました。(享年65)
フロイスの何がすごいのか?
文才のある彼は、多くの著作を残しました。
中でも有名なのが『日本史(Historia de Iapam)』です。
西洋のキリスト教徒の視点から見た、日本の歴史上の数々の事件に関する記述は、今では重要な研究資料となっています。
また、日本の歴史史料は仮名や漢字で表記されていましたが、フロイスの記述は表音文字であるアルファベットで書かれていたため、当時の言葉の発音を知ることができ、言語学上の資料としても貴重となっています。
彼の記録は膨大な量で、マカオのイエズス会学院に保管されていましたが、ある時、火災で焼失してしまいました。
現在の『日本史』は、その前にできていた写本の一部を復元したものです。
フロイスによる『日本史』における信長評
日本の日常生活なども詳しく記載したこの記録は、現在の私たちにおもしろいことを沢山教えてくれます。
フロイスが信長について記述した部分をピックアップしてみます。
・信長は地球が丸いことを理解した
・目覚まし時計を献上したが「壊れたら修理できなさそうだから返す」と言われた
・背が中くらいで細い。ヒゲは少なくて、声が高い
・武芸が好き。プライドが高く、下品で荒っぽい
・戦になると頭が冴える。せっかち
・部下の意見は聞かない。周囲から異様に恐れられているし、あがめられてもいる
・この国の全ての王侯(将軍、大名や家臣たち?)を見下しているようだ
・頭が良くて理解力があり、判断力は抜群
・睡眠時間は短くて早朝に起床した
・酒を飲まず、食を節している
信長の性格や態度をとても細かく書いていますね。
信長が今、小説、ドラマ、ゲームなどに登場するときのキャラクター設定は、このフロイスの記述をなぞっているようです。
彼は秀吉についても書いていますが、こちらはかなり辛辣な内容です。
まあ、それは伴天連追放令が出され、フロイスが苦労したこともあったのでしょうが。