世界三大夜景の箱館のきらめきのように、輝きを放っている函館の要塞・五稜郭。
当時では珍しい西洋式の要塞で、函館戦争では旧幕軍の拠点となりました。
この五稜郭にはあるウワサがあります。
それは五稜郭にある武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)の彫像に触れると頭がよくなるというもの。
五稜郭を訪れた観光客は、皆その顔に触れていくので、顔面だけ光り輝いています。
武田斐三郎は五稜郭を設計した人物です。
彼はいったいどのような人物だったのでしょうか。
今回は、実は凄かった五稜郭の設計者・武田斐三郎の生涯をご紹介します。
出自も交友関係も凄かった!
武田斐三郎の出身は、現在の愛媛にあたる伊予国。
甲斐の武田にゆかりのある由緒正しい家柄に生まれました。
少年時代は藩校に在籍しながら、母親の実家で漢方医学の修行をして過ごしました。
斐三郎に転機がおとずれたのは22歳のときのこと。
緒方洪庵の適塾で蘭学を勉強するようになり、その紹介で佐久間象山に師事するようになりました。
そして医療技術だけでなく兵学や砲学にもくわしくなっていきました。
うわさを聞いた幕府は斐三郎をスカウト。
斐三郎は旗本格として登用されることとなりました。
斐三郎は、幅広い交友関係を持っており、著名人と直接会う機会にも恵まれていました。
黒船来航は吉田松陰と現地まで赴いていますし、スカウトされて役人になってからは、プチャーチンとの交渉に随行したり、蝦夷地の視察では箱館でペリーとの会談にのぞんだりしています。
さらに諸術調所で教鞭を振るうようになりますが、このときの教え子には、榎本武揚、前島密、井上馨といったそうそうたる面々がそろっていました。
そして、教え子たちを引き連れて、自らが操舵しながら日本一周をしたり、ロシアへ貿易をかねた修学旅行をしたりもしていました。
箱館の要塞・五稜郭を設計
五稜郭を設計することになったのは、武田斐三郎が蝦夷地への視察に随行しているとき。
箱館奉行所が設置されたタイミングで箱館詰めを言い渡されたのがきっかけでした。
函館では五稜郭の設計に乗り出しました。
当時の箱館奉行所を現在の五稜郭がある位置へと移転することになり、土塁の設計を命じたのです。
斐三郎は、箱館に寄港しているフランス軍艦の軍人たちから綿密なヒアリングをおこない、ヨーロッパの城郭都市をモデルにして設計しました。
また、現地の環境や所有する武器の設置を考慮しながら、独自の工夫もしました。
斐三郎は、近代的兵器の開発や武器・弾薬の製造、さらに諸術調所で教育にも携わりました。
五稜郭の設計ばかりでなく、各方面の事業も行なっていたのです。
中には、日本発のストーブの設計なんてこともありました。
この暖房器具は「クワヒル」「カッヘル」と呼ばれており、蝦夷地の厳しい冬を乗り切るために、一部で実用化されていました。
寄港していたイギリス船にあったストーブに着想を得たようです。
ヨーロッパに派遣すべき逸材
明治維新によって幕府体勢が揺らいでいる頃、箱館奉行所のスタッフや諸術調所の生徒たちに惜しまれつつ、武田斐三郎は江戸に呼び戻されます。
ほどなくして戊辰戦争が勃発したときは、自ら関与することはなく、自宅を襲われてからは松代藩にかくまわれながら藩校で働きました。
その後、新政府で近代科学技術の推進につとめるようになり、陸軍士官学校の開校にも尽力しています。
ですが、近代日本のために奔走したことで体調を崩してしまい、1880年に53歳でこの世を去りました。
フランスのブリユーネ少佐は
「ヨーロッパへ武田大佐を派遣すればわずか1年で最新鋭の鍛錬法を導入することができ、結果的に数百万という経済的削減が可能となるだろう」
と斐三郎を評しました。
陸軍幹部が薩長土肥に占められていながら、旧幕軍出身者で大佐の地位となったのは武田斐三郎ただひとりでした。
近代科学技術の知識を持ち合わせた人材は他にいなかったのです。
斐三郎は逸材であったため、現在でも「五稜郭にある武田斐三郎の彫像に触れると賢くなる」といわれているのでしょう。。