七卿落ちの公卿・東久世通禧は凄腕の政治家だった

現代では、「七卿落ちの公卿」「開拓使で島義勇を罷免した人」「岩倉使節団に同行していた公卿」とクローズアップされる東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)。
実は明治時代に相当な評価をされた人物で、旧大名家と同等程度の家格でありながら、伯爵となっています。
今回は、波乱万丈な人生を歩んだ、公卿・東久世通禧をご紹介します。

逆境の公卿の明治維新

室町時代からの新興公卿の家格は、江戸時代になってもせいぜい諸藩の大名家と同程度。
東久世家もそんな新興公卿であり、朝廷内でも目立つことはありませんでした。
しかし、統仁親王(のちの孝明天皇)の遊び友達となったことで、彼の人生は変わっていきます。

朝廷内の攘夷を代表する孝明天皇の側近になった東久世通禧は、尊王攘夷をの志を共にする公卿や志士たちと活動するようになっていきました。
ですが、八月十八日の政変が起こり、朝廷が公武合体にひるがえってしまいました。
そのため、東久世通禧は京洛からはるかの長州へと落ち延びなければならなくなりました。

落ち延びてからは関門海峡を越えて大宰府で生活。
このとき、長崎まで足を運んで、直接外国人と接しながら、外国商館を訪問したり外国軍船に乗り込んだり最新鋭の外国製武器を扱ったり・・・。
他の公卿にはない経験をしました。

王政復古の大号令で復権してからは、吸収した知識を存分に発揮。
鳥羽伏見の戦いで新政府軍参謀となって、明治維新に大きく貢献しました。
また、この頃から外交官としての頭角をみせており、明治政府最初の外交問題の交渉で、諸外国の関係者から政治的判断能力を評価されていました。

北海道の開拓事業とガルトネル事件

明治政府発足から数か月。
北海道開拓使が始動すると開拓長官に任命されました。
蝦夷地へ向かうための準備期間はわずか1か月。
その間に「開拓施策要綱」に課題をあげて蝦夷地へと出発しました。

東久世通禧は、札幌に島義勇、根室に松本十郎、宗谷に竹田信順、樺太に岡本監輔と、北海道に精通している判官たちに各地の開拓を任命しました。
そして自身は、箱館奉行所あらため開拓使出張所で北海道開拓事業のための実務にあたりました。

最も大きな課題は、北海道開拓事業にあてられている予算の不足。
特に本府となる札幌の開拓は、必要経費ではあるものの予算超過をしていました。
そのため中央政府から予算への圧力がかかり、島義勇を解任せざるを得ませんでした。

さらに、カルトネル事件の対応も急務でした。
明治維新の際、蝦夷共和国がプロシア商人・カルトネルに「道南の一部エリアを九十九年にわたって貸し与える」という取り引きをしており、これを新政府が誤って承認してしまっていたのです。
ガルトネルとの交渉は難航しました。
しかし、東久世通禧の粘り勝ちで六万ドルの賠償金と引き換えに契約破棄にこぎつけることができました。

岩倉使節団で世界へ飛び出す

東久世通禧は、2年間で北海道開拓事業の基盤づくりに成功。
その功績が認められ、岩倉使節団の一員となって世界各地を視察することになりました。
中央政府復帰後には、元老院副議長に就任。
さらに枢密顧問官、貴族院副議長、枢密院副議長と、政府内でも重要なポストを務めました。

島義勇の解任には賛否両論あるものの、結果的には諸問題を解決しながらつつがなく開拓事業を展開した東久世通禧は、
明治維新に貢献し明治政府でも大きな功績を残した、凄腕の政治家だったのです。

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