鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に勝利した薩長中心の新政府軍が、次に目指したのは幕府のお膝元の江戸でした。
1868年1月。
西郷隆盛や岩倉具視の後押しで結成された赤報隊が、先鋒となって江戸に向かいました。
赤報隊とは「赤心を持って国恩に報いる」から付けられた隊名で、一番隊、二番隊、三番隊で構成されていました。
赤報隊隊長であり一番隊長でもある相楽総三は、若い頃から尊皇攘夷運動に身を投じていた人物。
1867年には、西郷の密命を受けて活動を行い、戊辰戦争が起きるきっかけを作りました。
年貢半減の布告
赤報隊は新政府の許可を得て、東山道軍の先鋒として各地で「年貢半減」を宣伝しながら江戸へ向かい、世直し一揆などで旧幕府に反発していた各地の民衆に熱狂的な支持を得ます。
しかし、新政府は年貢半減の公約について、文書で証拠を残さないようにしていました。
赤報隊が歓迎されたことは喜ばしいことでしたが、実のところ財源が乏しく、年貢半減は無理なハナシだったのです。
ただ、一度出した触れを引っ込めてしまえば、民衆の反発は免れません。
そこで新政府は、年貢半減の触れを出した赤報隊を嘘つきの「偽官軍」として切り捨てました。
相楽総三の一番隊は反発しましたが、新政府軍の赤報隊捕縛の命を受けた小諸(こもろ)藩などに襲撃され惨敗。
相楽を含む8名が下諏訪にて処刑されました。
二番隊は新政府に従って京都へ戻り徴兵七番隊に編入され、三番隊は各地域での略奪行為が多いということで多くの隊士が処刑されました。
相楽総三の名誉回復とその後
相楽は、新政府のための尽力も空しく「官軍と称して勝手に金品を徴収した不届き者」と扱われていましたが、昭和に入ってから彼の名誉が回復します。
相楽の終焉の地である下諏訪では、赤報隊を顕彰する「相楽会」が誕生し、2008年には、岐阜剣不破郡垂井町に赤報隊の顕彰碑が建立されたのです。
それからの赤報隊は「官軍の捨て駒にされた悲劇の主人公」として扱われてきました。
しかし、近年の研究で、その実像が明らかにされ、新たな見方が出てきました。
相楽たちは過激行動に走りすぎるきらいがあり、大政奉還の翌日に新政府から「鎮静」するよう念を押されていたにもかかわらず挙兵し、鎮圧されています。
赤報隊は旧幕府軍を挑発するためとはいえ、江戸の市街を焼き払い、伊勢長島藩主から軍資金という名目で3000両を強奪していました。
相楽たち赤報隊の度重なる独立行動や掠奪ともいえる行為を危惧した新政府は赤報隊に帰還を命令。
しかし、相楽たちは命令に従わなかったため、「偽官軍」と見なされることになったのが真相だと近年の研究で実像が明らかになってきたました。