<出典:wikipedia>
五稜郭をかたちどる篝火(かがりび)が浮かび上がるのを眺めながら、新政府軍の参謀・黒田清隆は、陥落寸前の要塞に立てこもっている蝦夷共和国総裁・榎本武揚を降伏させる方法を考えていました。
榎本武揚(えのもと たけあき)が新政府にとって貴重な人材である、と確信していたのです。
しかし、榎本武揚は最後の一人になったとしても戦い抜く覚悟。
五稜郭から送られてきた降伏に対する返書には、降伏を拒否する旨が書かれており、貴重な国際法の原本も添えられていました。
榎本の、オランダ留学中に購入した国際法の原本を戦禍で消失しないための配慮でした。
この出来事で、黒田清隆はなおさらこの逸材を失ってはならないという気持ちを強くしました。
その後、榎本は新政府軍の降伏を受け入れ、黒田清隆が望んでいたように新政府でも活躍しました。
榎本は、どうして蝦夷共和国を設立したのでしょうか?
今回は蝦夷共和国の真相に迫ります。
榎本武揚の歩み
榎本武揚は、精細な日本地図を作製したことで知られる伊能忠敬の弟子・榎本武規の次男として誕生しました。
名門・昌平坂学問所に在籍していましたが、卒業するときの成績はいいものではありませんでした。
昌平坂学問所を卒業してからは、ジョン万次郎のもとで英語を習得します。
また、この頃、箱館奉行に随行して蝦夷地・樺太の調査をする機会を得ます。
箱館では五稜郭を設計した武田斐三郎から手ほどきを受けたこともあり、海外へ視野を向けるようになりました。
その後、蝦夷地での調査をしてからは、長崎の海軍伝習所で航海術の修練と勉学に明け暮れるようになります。
海軍操練所の軍艦操練教授となったあとは、オランダに留学も果たしました。
蝦夷共和国建国の設立
オランダから帰国した榎本武揚を待っていたのは戊辰戦争でした。
旧幕府側は、最新鋭の艦隊・開陽丸で薩摩藩の平運丸に攻撃をあびせ、阿波沖海戦で薩摩藩を打ち負かしました。
ですが、榎本が大坂城に滞在している間に、開陽丸で徳川慶喜が江戸へ引き上げてしまいます。
このことについて、よほど不満だったのか、後年。
榎本武揚は、徳川慶喜と同じ写真に写ることはできないと言って、撮影を拒否してしています。
榎本武揚は、大坂城内にあった18万両と武器・弾薬を詰め込み、さらに負傷兵たちを回収して、富士山丸で江戸を目指します。
海軍副総裁に格上げされた榎本は、新政府軍に対抗することを主張しますが受け入れられません。
そして江戸城の明け渡しが水面下でおこなわれていることを知ると、旧幕軍が江戸から脱走して体勢を立て直すことを計画します。
艦隊の準備を整えて停泊していると、江戸無血開城をはたした新政府軍が艦隊の引き渡しを求めてきます。
勝海舟が艦隊引渡しのために、榎本を説得。
しかし榎本は品川沖から脱走をします。
艦隊に敗走兵を回収しながらついに蝦夷地に到着。
松前城を落として箱館奉行所が設置されている五稜郭を占領します。
ここで、国際法にしたがって、榎本武揚は自らが総裁となって蝦夷共和国を樹立します。
このことは、すぐに諸外国にも知らされることになりました。
蝦夷共和国の目的とは?
蝦夷共和国の樹立の目的は、一言で言うとナゾです。
一応、樹立宣言のときには「蝦夷地の開拓・北方警備」を掲げています。
後年には、新政府に抵抗したことも認めています。
徳川宗家の再興が目的だったとも言われています。
しかし、一緒に写真を撮影することさえ拒否した榎本武揚が、そのような目的のために箱館戦争を戦うでしょうか。
黒田清隆に国際法の原本を託したことを思えば、江戸幕府とは無関係であり、
諸外国にも抵抗できる近代国家を実現するため、欧米のような共和制に可能性を求めたとも考えられます。
最終的に、五稜郭が陥落したことで榎本武揚は降伏を受け入れました。
そのとき、どのような心境の変化があったのかは分かりません。
その後しばらくは収容生活を余儀なくされましたが、黒田清隆の働きかけによって明治政府に活躍の場を与えられました。
そして、蝦夷共和国を樹立した北海道にも、開拓使として発展に尽力しました。