江ノ電の始発である鎌倉から江の島をのぞむ沿岸を過ぎると、ほどなくして腰越に到着。
すぐむこうには腰越海岸がみえます。
腰越海岸にさしかかるあたりに、傾斜がある細長い石段と、そのてっぺんに山門がみえます。
これが、源義経の「腰越状」で知られている満福寺です。
平家討伐の後、源義経は源頼朝に鎌倉入りを拒否されたため、満福寺での滞在を余儀なくされました。
そして許しを得ようと弁明状「腰越状」をしたためました。
ちなみに、ときは移って江戸時代。
寺子屋や明治時代の私塾で手習いをしていた子どもたちにとって、この腰越状は身近なものでした。
日本では200年以上にわたって、こどもたちの手習いのために腰越状が使われていたのです。
最近では、腰越状のことはすっかりと忘れれられていますが。
さて話を戻して、この腰越状の内容と、そこから分かる兄・頼朝とのズレを見ていきたいと思います。
満福寺にいたるまでの源義経の活躍
平治の乱のころ。
源義経は、清和源氏をまとめる源義朝の九男として誕生しました。
義経は源頼朝と異母兄弟。
しかし、平治の乱で源義朝が討たれ、母親の常盤御前と逃亡生活となったため、2人は面識がありませんでした。
平治の乱のあと、「幼子が仏門に入って僧になるのであれば見逃そう」と言われたため、常盤御前は義経を京都の鞍馬寺に預けることとなりまます。
ですが、多感な年齢をむかえる頃には、義経は鞍馬寺を出奔して奥州藤原氏のもとへ向かいます。
諸説あるものの、常盤御前が再婚した一条家とのつながりがあったためとみられています。
1180年。
伊豆で謹慎していた源頼朝が挙兵すると、義経は藤原家のバックアップで平氏討伐に加わります。
こうして互いに面識がなかった異母兄弟は、現在の静岡県に設置された黄瀬川の陣で顔を合わせることになりました。
それから義経は、伝説として語り継がれるほど大活躍。
従兄弟にあたる木曾義仲を征伐したのを皮切りに、「鵯越の逆落とし」による一ノ谷の戦いでの勝利もおさめ・・・。
後白河法皇から信頼を得て検非違使・左衛門少尉に叙任されます。
しかし、後白河法皇には、「源義経に権力を与えることで源頼朝の勢力をそごう」という魂胆がありました。
こうして義経は、源頼朝から不興をかってしまいました。
断りもなく役職を引き受けたことで、頼朝との関係が悪化した義経。
しかし、実際のところ、もっと複雑な事情が交錯していました。
腰越状の内容とは?
後世には半官びいきといわれるように、源頼朝・義経兄弟の関係には亀裂が生じてしまいました。
義経は、矢島の戦い、壇ノ浦の戦いと、大活躍をしましたが、頼朝か念押しされていた三種の神器を取り返すことはかないませんでした。
このことが理由なのか、義経は平家討伐を成し遂げたのにもかかわらず、源頼朝との面会を拒絶されてしまいます。
そこで満福寺に身を寄せて腰越状をしたためます。
【腰越状】 我々の父親の仇であり、朝敵でもある平家を滅ぼしたのにも関わらず、手柄こそあれこのような扱いを受けることに悲しみを覚えざるを得ません。 兄弟の情というものはないに等しいものなのでしょうか。 私が検非違使に任じられたことは、我ら源氏にとって名誉であるはずです。 神々に誓ってこれっぽっちも野心がないことをお誓いします。 |
腰越状を短くまとめましたが、内容はおおよそこのとおり。
朝廷から地位をいただいたことは源氏としての名誉であり、野心から得たものではないと釈明しています。
腰越状の内容から分かる頼朝とのズレ
腰越状の内容から頼朝・義経兄弟には、埋められないほどのズレができてしまっていることが伺えます。
義経は父親の仇である平家を討ち滅ぼした手柄を強調しながら、三種の神器奪還の失敗については触れていません。
ここから、義経は父親の仇である平家を討つことが目的だったことが分かります。
そして、それが朝敵なのだから、世のため人のためにもなると思っている節が見られます。
しかし源頼朝は、仇としては平清盛を討てばすむと認識していました。
それよりも、平清盛が病死したので、あとは三種の神器を手に入れて政権を掌握することを目的としていました。
2人の考えは大きくズレていました。
義経自身、後白河法皇から官位をいただくことが、朝廷との距離を縮めて政権掌握のネックになるということに気付けていませんでした。
とはいうものの、頼朝も異母弟を追い詰めるつもりはなかったようで、京都で引き返すように仕向けています。
ですが、源義経の気持ちはおさまりませんでした。
義経は、後白河法皇から頼朝追討の院宣を掲げて立ち上がります。
この行動は、源頼朝も見過ごすことはできず、義経は追い込まれ奥州で自害をせざるを得なくなってしまったのです。