慶応3年11月18日――
御陵衛士の藤堂平助が、油小路を七条に差しかかったころ。
すでに新選組が待ち伏せをしていました。
同じく、篠原泰之進が御陵衛士を組織する伊東甲子太郎の遺骸を駕籠に移そうとしているところ、暗がりから姿を現した新選組が襲いかかりました。
いわゆる「油小路の変」では、新選組を離脱した伊藤甲子太郎によって組織された御陵衛士が、新撰組の手により壊滅に追い込まれました。
御陵衛士たちは壊滅前、どのような活躍をしていたのでしょうか。
今回は、油小路の変まで御陵衛士たちがどこでなにをしていたのか、その真相に迫ります。
伊東はどうして御陵衛士を組織したのか
伊東甲子太郎とは新選組に加わったときに、その並々ならぬ決意を現わすために改名したもので、本名を鈴木大蔵といいます。
伊東甲子太郎の家は、常陸志築藩の大目付という家格でありながら、実父が職を追われたため一家離散となってしまいます。
その後、伊東甲子太郎は少年時代を水戸藩で過ごし、過激な水戸学の洗礼を受け、神道無念流おさめました。
しばらくして、江戸で北辰一刀流をおさめた伊東甲子太郎は、伊東道場の婿養子となって伊東姓となりました。
そして、北辰一刀流で親交があった新選組・藤堂平助の紹介で、新選組局長・近藤勇と対面すると、すぐに新選組に加わることが決まり、参謀の地位が用意されました。
伊東甲子太郎は尊攘の思想が一致するため新選組に加わりましたが、伊東甲子太郎は「勤王」、新選組は「佐幕」と、次第に決定的な思想の違いが浮き彫りになっていきました。
新選組の参謀となってから3年がたったとき。
薩摩藩の動向を探るためという理由で新選組から分離して御陵衛士を組織しました。
その目的は、薩摩藩に援助してもらいながら、倒幕の機運に乗じるべく活動することでした。
八坂の塔が見下ろす石塀小路にある高台寺という由緒正しい寺院が、御陵衛士たちの屯所としてあてがわれました。
この高台寺で生活をしていた御陵衛士たちは、剣術や砲術の鍛錬をしたり、伊東甲子太郎から英語を教わったりしながら、倒幕のために活躍する準備をしていました。
伊東甲子太郎はというと、雄藩の要人と面会をして勤王を説きました。そのために、京阪地方ばかりでなく、じきじきに雄藩を訪ねることもありました。
そのなかには、土佐藩士の坂本龍馬と中岡慎太郎も含まれています。
坂本龍馬の活躍で大政奉還が実現すると、伊東甲子太郎は焦りを覚えずにはいられませんでした。
このままでは、何の活躍もしないまま新しい時代をむかえてしまうかもしれない。
大政奉還をきっかけに、伊東甲子太郎はなりふり構わなくなっていきました。
御陵衛士が新選組に狙われたわけ
御陵衛士にはスパイが紛れ込んでいました。
倒幕の機運に乗り遅れることを焦った伊東甲子太郎は、新選組屯所を焼き討ちにしたうえで、幹部を残らず殺害、自らが新選組局長となって、新選組を尊王攘夷の集団にすることを計画。
スパイから報告を受けた新選組は、すぐに御陵衛士殲滅へと動き出します。
慶応3年11月18日。
伊東甲子太郎は新選組局長からの誘いに応じ、近藤勇の妾宅で酒を飲み交わし、酔っていたところを新選組隊士たちが襲って殺害しました。
この伊東甲子太郎の遺骸は油小路の七条にさらされました。
御陵衛士たちは町役人からこのことを知らされ、伊東甲子太郎の亡骸を引き取るために出向きます。
しかし、亡骸を駕籠に移して運ぶこともままならず、襲いかかる新選組と乱闘にもつれ込みました。
このとき、新選組幹部とつながりがあった藤堂平助は、局長・近藤勇の命令によって逃がされる手はずになっていたともいわれています。
しかし、事情を知らない隊士によって斬りつけられ、討ち死にしてしまうのです。(実は油小路を逃げ延び、明治時代になってからは水道事業に貢献したといううわさもありますが、真相はわかりません。)
油小路の変では、伊東甲子太郎と御陵衛士の藤堂平助・服部武雄・毛内監物が命を落としました。
壊滅に追い込まれた御陵衛士たちは、戊辰戦争では新政府側にたち、その後は事業を興したり、警察畑を歩いたり、それぞれに新しい世の中で活躍する者もいました。