清水寺参道の産寧坂。
いわゆる京都の東山といわれる界隈です。
現在では重要建造物群保存地区にも指定されている清水寺参道は、非番の新選組隊士たちも、清水寺の参拝と周辺の観光を目的に訪れていたといわれています。
1864年7月13日
新選組隊士たちは職務のために産寧坂を訪れました。
料亭「明保野亭」において池田屋事件のときのように、不逞浪士たちが密会しているとの情報を受け、襲撃に来たのです。
しかし、明保野亭にいたのは不逞浪士ではなく、その当時は会津藩と友好関係にあった土佐藩士でした。
そのため、明保野亭を襲撃してから、事態は思わぬ方向へと転がり、意外な顛末を迎えたのでした。
実況!明保野亭事件!!
明保野亭事件当日からさかのぼること5日前の7月8日。
新撰組は三条木屋町の旅籠・池田屋を襲撃しました。
尊皇攘夷派の志士たちが御所焼き討ちの計画を企てるために集会をしていたのです。(池田屋事件)
この新撰組の活躍により、御所の焼き討ちは未然に防がれ、京都の町も守られました。
そして、一躍「新選組」の名が知れ渡りました。
池田屋以降、新撰組は以前にもまして京都市中の取り締まりを強化していました。
そして明保野亭事件は起こりました。
会津藩士に柴司という青年がいました。
池田屋事件で負傷した者が復帰するまで新選組に配属され、明保野亭へと駆け付けたのです。
柴司はなんと、柴司は明保野亭で酒をたしなんでいるだけだった土佐藩士を不逞浪士として勘違いし、斬りつけてしまいます。
斬りつけられた土佐藩士は命に別状はなく助かったものの、友好関係にあった会津藩と土佐藩との関係が悪化してしまいます。
明保野亭事件の意外すぎる顛末
明保野亭事件をさかいに、関係が悪化してしまった会津藩と土佐藩。
それぞれに動きがありました。
まず、土佐藩。
明保野亭事件で斬りつけられた土佐藩士・麻田時太郎は、襲撃をされたとき、会津藩士の柴司に背中を向けてしまいました。
それが「武士にあるまじき行為」と見られ、切腹を余儀なくされました。
土佐藩は明保野亭事件を穏便におさめようとしたと考えられますが、むしろ事態を複雑にしてしまいました。
もうひとりの当事者、新選組に応援として加わっていた会津藩士・柴司。
彼も結果的に切腹をせざるを得なくなってしまいました。
麻田時太郎が切腹をしたというのに、加害者の柴司が腹を切らないのであれば、会津藩としても土佐藩に示しをつけることができなかったのです。
こうして柴司は21歳という若さで切腹をしました。
新選組隊士たちが悼んだ会津藩士の切腹
会津藩お預かりという立場にあった新選組は、少なからず会津藩士とも交流があったともみられています。
実際、明保野亭事件でも襲撃した20人のうち、5人が会津藩士でした。
公務をしながら顔見知りとなっている隊士と藩士がいたとしてもおかしくありません。
新選組では会津藩士・柴司の葬儀に、幹部を含めた隊士たちが大勢参列しました。
鬼の副長・土方歳三が、柴司の遺体に触れ、涙を流したとも伝わっています。
ひとまわり年若い柴司を、旧知の沖田総司や藤堂平助同様にかわいがっていたのかもしれません。
新選組の幹部である永倉新八も、柴司の死をひどく悼んだひとりです。
実は、明保野亭事件のとき、柴司が身に付けていた鎖帷子と槍は、永倉新八が貸した、もしくは譲ったものでした。
そのあたりの経緯はわからないものの、後に遺品として柴司の兄に渡されました。このときの様子は、永倉新八が遺した手記からうかがい知ることができます。
明保野亭では新選組と行動をしていた会津藩士が、誤って土佐藩士を攻撃してしまい、会津藩と土佐藩の事情が複雑に絡み合い、加害者と被害者が切腹するという顛末をむかえました。
ですが、この明保野亭が不逞浪士たちの集会に使われていたことも事実です。
あの坂本龍馬も、度々滞在していたというくらいです。
現在でも、京都東山で明保野亭は営業しています。
当時の事件を思わせるものはありませんが、坂本龍馬の名前がついたメニューとともに、幕末に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?