<出典:wikipedia>
黄金に輝く城、聚楽第(じゅらくてい)。
豊臣秀吉が贅を尽くして創り上げた建築物の様子を一度は見てみたいものですが、現在は残された文書や絵図からしか想像するしかありません。
なぜなら完成からたった8年で、建てた本人の秀吉によって取り壊されてしまったからです。
「聚楽第」は、「聚楽城」「聚楽屋敷」「聚楽亭(じゅらくてい)」とも呼ばれ、正保期の版本小瀬甫庵の『太閤記』には「聚楽第」の表記には「じゅらくてい」のふりがなが振られています。
そのため、当時は「じゅらくてい」と呼称した可能性が高いと言われています。
「聚楽」の名の由来を考える上では、2つの書籍が参考になります。
記録書『聚楽行幸記(じゅらくぎょうこうき)』には、「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」とあります。
またルイス・フロイスの『日本史』には、
「彼(秀吉)はこの城を聚楽(juraku)と命名した。それは彼らの言葉で悦楽と歓喜の集合を意味する」
と記録されています。
「聚楽」の言葉自体は、秀吉の造語ではないかと考えられています。
聚楽第とは豊臣秀吉の栄華の象徴
聚楽第は、1585年に秀吉が関白に就任した時、大内裏跡に建てた邸宅です。
京都御所の西側、二条城の北側あたりで、東西は大宮通から智恵光院通まで。
南北はおよそ一条通から下長者町通までが範囲だったとされています。
1586年春に着工し、翌年9月に完成。
周囲を濠塁で囲み、このうえない豪華壮麗さで天下に威勢を示しました。
秀吉はここで政務を行い、1588年4月、後陽成天皇も行幸しています。
研究によって解明されている聚楽第は、本丸を中心に、西の丸・南二の丸及び北の丸(豊臣秀次増築)の三つの曲輪(くるわ/土石の囲い)を持ち、堀を巡らせていた平城と考えられています。
国立国会図書館・広島市立図書館(浅野文庫)などが所蔵する「聚楽古城図」には本丸北西隅に「天守」の書き入みがあるため、天守があった可能性も論議されています。
黄金の城へ続く金の町並み
聚楽第の屋根には金箔瓦が用いられました。
白壁の櫓や天守のような重層な建物を持つ姿が「聚楽第図屏風」や「洛中洛外図」(江戸初期)などに描かれています。
聚楽第の周辺には、聚楽第と御所の間を埋め尽くすように建てられた秀吉直属大名の屋敷も全て金箔瓦が用いられました。
ゴージャスが好きな秀吉は、黄金の城・聚楽第へ続く道まで金の町並みを作ったのです。
ときは移り1992年。
ハローワーク西陣の立て替え工事の際に、本丸東堀後が検出され、本丸の建物に葺かれていたと考えられる金箔瓦約600点が出土しました。
黄金の屋根の話は本当だったのです。
これらは2002年に国の重要文化財に指定されています。
秀吉が聚楽第を取り壊したワケ
長男鶴松の死後、甥の秀次を養子にし、聚楽第と関白を譲った秀吉。
しかし、1593年。
実子秀頼が生まれると我が子かわいさに、態度が豹変します。
秀次の態度にも問題があったとの説もあるのですが、1595年に秀吉は、秀次に謀反の疑いをかけて、出家させ、高野山に追放して切腹させてしまいました。
しかも、秀次は三条河原でさらし首。
その首に見下ろされる形で秀次の妻妾、幼い子供たち、侍女、乳母ら39名全てが斬首されました。
翌8月。
秀吉は近江八幡山城と共に秀次の居城であった聚楽第も徹底的に破却。
秀次の痕跡を地上から完全に抹消しようとする秀吉に、人々は恐れをなしたといいます。
聚楽第の殿舎の多くは伏見城へ移され、今でも大徳寺唐門、西本願寺飛雲閣および浴室にその遺構がみられます。
こうして、贅を尽くし桃山文化を代表する建築物であった聚楽第は豊臣秀吉によって造られ、そして8年後に壊されてしまったのでした。