平滋子(たいら の しげこ)は、平清盛と後白河院を繋げ、平家の興隆に一役買った女性です。
彼女には信条がありました。
「女は心がけ次第」
この信条によって、滋子は華やかな人生を手に入れました。
ビッグネーム揃いの親族たち
滋子は、平時信と藤原祐子の間に生まれました。
“平”という名ですが、清盛を代表とする平氏とは枝分かれしている家でした。
滋子には兄と姉がいたのですが、この二人は平氏を語る上では外せないビッグネーム!
『平家にあらざれば人にあらず』
平家の栄華をこう言ったという人物こそが、滋子の兄・平時忠でした。
そして姉は、平氏のリーダー・平清盛の妻として有名な平時子。
兄・姉はこのようにして歴史に名を残しました。
それでは、滋子自身の地位とはどんなものだったのでしょうか?
まさかの展開!息子が天皇に!
後白河院の姉・上西門院統子の女房として、御所に入った滋子。
兄の時忠が右少弁だったため、“小弁局”と呼ばれました。
そして、滋子は後白河院からの寵愛を受けることになり、1161年には後白河院の子ども・憲仁親王を産みました。
「憲仁親王を天皇にしよう!」
後白河院側は動きましたが、後白河院をよく思わない当時の天皇(二条天皇)側によって、その計画は失敗。
滋子の兄・時忠も、二条天皇を呪ったとして流罪にされてしまいます。
後白河院も政治に関われなくなり、「これまでか」と思っていたところ・・・。
なんと、二条天皇自身を含めて、天皇側の中心人物たちが次々と亡くなっていきました。
二条天皇は亡くなる前に六条天皇に譲位していましたが、六条天皇はまだ3歳。
しかも、彼の後見人だった人も亡くなってしまったので、これでは政治をしようにもできません。
こうして、天皇側に思いもよらぬ不幸が起こったため、結果として、憲仁親王は高倉天皇として即位することになりました。
高倉天皇が即位したことによって、滋子は皇太后という地位を手に入れます。
そして、その翌年には“建春門院”という院号を得て、ついに女院(院と同等の位)になりました。
ただの女房だった滋子が女院になるなんて、きっと誰も予想していなかったでしょう。
『たまはるき』が語る滋子
では実際、滋子がどんな女性であったか見ていきましょう。
彼女の女房・健御前が『たまきはる』に次のようなことを書き記しています。
滋子がいつも口にして言葉がある。
「女は心がけ次第です。親や周囲によるものではありません。自分を卑下せず品位を持っていれば、幸せは自然とやってくるものです」
実際に、滋子は女房から女院までの大出世を遂げています。
彼女は「女は心がけ次第」という言葉を信じ、それを守って生きていたのでしょう。
滋子は35歳という若さでこの世を去りますが、その人生は華やかなものとなりました。