<出典:wikipedia>
加賀百万石の大大名となった前田利家。
その影には妻・まつの支えがありました。
前田家が滅亡の危機にさらされたときも、まつは、それを救いました。
前田まつとはいったいどのような女性だったのでしょうか?
前田利家との結婚
4歳で父を亡くしたまつは、母の妹が嫁いだ前田家で育てられました。
このまつの母の妹というのが、利家の母親。
つまり、まつの夫・利家は、まつの従兄弟でもありました。
そして12歳で、まつは9歳年上の利家と結婚しました。
“かぶき者”のための陣羽織!
利家は、いわゆる“かぶき者”でした。
かぶき者とは、常識破りの派手な格好、行動をする人のことです。
利家も派手な格好を好んでしていました。
そんな夫のために、裁縫が得意だったまつは陣羽織を作ります。
布を贅沢に使い、丈は地面に触れそうな長さ。
そして、背中に大きく鍾馗(中国の疫病を払う神)を刺繍しました。
この陣羽織を見て、秀吉は「うらやましい」と言ったそうです。
かぶき者の利家のために、派手で立派な陣羽織を作ったまつ。
派手好きで知られる秀吉が羨ましがるほどの品ですから、利家も大満足だったでしょう。
ちなみに現在、この陣羽織(刺繍菊鍾馗図陣羽織)は、国の重要文化財に指定されています。
まつの裁縫、刺繍の腕前がどれほど素晴らしかったのか分かりますね。
覚悟の一言「母を捨てよ」
秀吉が亡くなった翌年(1599年)に、利家は62歳で亡くなりました。
まつはこれをきっかけに出家し、芳春院となります。
しかし、利家の死はまつの出家だけでなく、前田家の滅亡の危機をも招きました。
利家が亡くなると、徳川家康が加賀征討を行おうとします。
その理由は、利家の跡を継いだ息子・利長に「家康を暗殺しようとしている」という噂がある、というものでした。
利長は家康と戦おうと思いますが、それをまつは止めます。
そして家康側に使者を送り、「謀叛の気持ちなどない」と弁明するように言いました。
さらに、まつ自身が人質になろうと言うのです。
これにはもちろん大反対を受けますが、利長は最終的に頷きます。
1600年5月。
これから江戸に向かう時に、まつは利長に言いました。
「私のことは見殺しになさい」と。
まつには、前田家のために尽くすという熱い思いがありました。
「武士は家のことを一番に考えなければいけません。
ですから、母のことを思って家を潰してはいけません。
家の存続こそが大事なことなのです。
ですから、いざという時には私のことは捨てなさい」
それからまつは、15年もの長い年月を、人質として江戸で過ごしました。
やっと解放された時には、まつは68歳になっていました。
この時には、もう息子の利長も亡くなっています。
そしてそれから三年後、まつも71歳でその生涯を終えました。