<出典:wikipedia>
漫画やお芝居で有名な石川五右衛門。
江戸時代の浄瑠璃や歌舞伎の世界では、権力者に向かう義賊として民衆の心を捕らえました。
その芝居における権力者とは豊臣秀吉でしたから、江戸時代の徳川政権の下で歓迎されたのも頷けます。
石川五右衛門実在の証拠
ベルナルディーノ・デ・アビラ・ヒロンというスペインの貿易商人は、16世紀末から約20年間日本の長崎に在住。
日本見聞録『日本王国記』を残しました。
『日本王国記』は史料として価値が高く、その中には「京都の三条河原で盗賊団が生きたまま油で煮られた」という記事があります。
しかもその注記に
「この事件は1594年の夏である。
油で煮られたのは “Ixicava goyemon” とその家族9人ないしは10人であった。
彼らは兵士のようななりをしていて10人か20人の者が磔になった」
とあるのです。
同様の記録は、公家の山科言経(やましなときつね)の日記『言経卿記』にも見られます。
諸説あり。五右衛門の履歴
ただ、石川五右衛門の生い立ちは、諸説あってよく分かっていません。
遠州浜松生まれや、丹後国の豪族石川氏の出身説に加え、伊賀国出身の伊賀忍者の抜け忍(忍者を辞めた者)であり、百地三太夫(ももちさんだゆう/伊賀流忍法の祖)の弟子だったという説も。
かの有名な歌舞伎のセリフ「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ」は、南禅寺の桜門上で、石川五右衛門が、ゆるりと煙草をふかしながら言うセリフ。
しかし彼の生きた時代に、南禅寺に楼門はありませんでした。
また実際のところは義賊どころか、豊臣秀吉の朝鮮出兵で、警護が手薄になった京都など都市部を荒らした、かなりあくどい盗賊だったとか。
彼が捕縛された原因は、豊臣秀吉の甥である豊臣秀次側から依頼された秀吉暗殺に失敗したからでした。
秀吉の寝室に忍び込んだ際、お香を焚くための千鳥の香炉のつまみ部分の鳥が鳴いて知らせたためにしくじったとされています。
実際は香炉から立ち上る煙や香りが微かな空気の動きに反応したのが察知されたのでしょう。
配下の1人が仲間や悪事のこと全てを白状し、五右衛門もろとも一党10名から20名が一網打尽にされました。
有名な釜煎りの処刑も、「煎られた」の他に「茹でられた」「油で揚げられた」などの説があります。
母親は熱湯で煮殺され、その熱さに泣き叫びながら死んでいったそうです。
五右衛門自身は、一緒に処刑される子供を高温の釜の中で自分が息絶えるまで持ち上げていた、あまりの熱さに子供を下敷きにした、さらに、苦しませないように先に子供を釜に沈めた等の説があります。
絵師による処刑記録から、沈めて先に殺してやった説が最有力だそうです。
釜煎りという、あまり例のない残酷な極刑。
秀吉は怒りのあまり、憎き盗賊の処刑まで彼好みの派手なショーに仕立て上げたのでしょう。
五右衛門の墓
京都の東山にある浄土宗寺院大雲院(だいうんいん)に、石川五右衛門の墓があります。
処刑の前に市中を引き回された五右衛門が、当時は寺町通四条下ルにあった大雲院の前を通ったのが縁だそうです。
五右衛門の辞世の句は、「石川や 浜の真砂は 尽くるとも 世に盗人の 種は尽くまじ」。
「自分が死んでもこの世から泥棒はなくならない」という意味です。
最期まで強気だった五右衛門。
かくして彼は日本一有名な泥棒となりました。