萩市内にはたくさんの夏みかんが色付いています。
城下町の面影が色濃く残る界隈には「夏みかんソフト」「夏みかん漬け」「ホット夏みかん」…
とにかく夏みかんです。
この夏みかんは明治維新後に栽培されるようになりました。
幕末。
長州藩の政治の中心が山口に移ったことで、萩城はからっぽになり城下町は寂れてしまいました。
そこで元武士たちは夏みかんを栽培することで、収入を得るようになりました。
このとき、夏みかん栽培のために大がかりな開墾を必要とせず、現在でも萩城下の区画はほぼ幕末当時の状態を保っています。
そのため今も高杉晋作の足跡がたくさん残されています。
今回は、高杉晋作の生涯とともに、地元を同じくする松下村塾の塾生仲間である桂小五郎と伊藤博文との関係を、萩城下の古地図をもとにクローズアップしてご紹介します。
萩城下に誕生した高杉晋作
萩城下には高杉晋作の生家が現存しています。
この引き戸を勢いよく開けて、バタバタと廊下をかけていく高杉晋作の姿が目に浮かびます。
敷地内には、高杉晋作の産湯に使用された井戸もあります。
高杉家は長州藩では中級武士の家格。
嫡男として誕生した高杉晋作は、何不自由なく教育を受けて育てられました。
そして、藩校・明倫館在学中、親友・久坂玄瑞の紹介で松下村塾に出入りするようになり、吉田松陰に師事することになりました。
その後、幕府使節の随行員として清国へ派遣されると、欧米列強の植民地となっている姿を目の当たりにします。
「これは日本にとっても対岸の火事ではない」
そう危機感を抱いた高杉晋作は、尊王攘夷運動を決意しました。
高杉晋作は身分に関わらず有志から構成される奇兵隊を創設し、長州藩の武力増強につとめます。
その後トラブルによって奇兵隊の総督からは外れるものの、依然として尊王攘夷派の中心的な人物として、下関戦争の講話や功山寺挙兵、第二次長州征伐での小倉戦などで活躍します。
ですが・・・。
わずか29歳で、肺結核によりこの世を去りました。
高杉晋作と伊藤博文は円政寺で遊んでいた?
1864年。
四カ国連合艦隊による砲撃に降伏をせざるを得なくなった長州藩は、その講話交渉の代表に高杉晋作、英語通訳に伊藤俊輔(後の伊藤博文)を指名しました。
交渉に臨んだ高杉晋作は、烏帽子直垂(えぼしひたたれ)という貴族の装いで、突然古事記を朗読。
通訳をしていた伊藤俊輔は「高杉さんは頭がおかしくなってしまった…」と真っ青になります。
ですが、これは高杉晋作なりの交渉術でした。
そして結果的に、長州藩の講話はおおむね成功に終わりました。
高杉晋作と伊藤俊輔は、吉田松陰が主宰する松下村塾の塾生で、ふたりは円政寺で遊んでいたといわれています。
実際、ふたりが遊んだといわれる木馬が現在も残っています。
こんな幼少期からの親しい関係があったからこそ、下関戦争の講話や功山寺での挙兵が実現したのかもしれません。
高杉晋作のお兄ちゃん?ご近所の桂小五郎
萩城下町には桂小五郎の生家が現存しています。
桂小五郎は藩医であった和田家の嫡男でしたが、病弱であったことを理由に武家の桂家の養子となります。
そしてその後、養父が死去したことで、桂姓のまま実家で成長していくことになります。
桂小五郎は松下村塾の塾生ながら、吉田松陰とは親友という関係でもありました。
塾生となった高杉晋作からみれば桂小五郎は先輩にあたるわけです。
ちなみに功山寺挙兵で藩論を尊王攘夷に転換した高杉晋作は、藩政を主導できる唯一の人物として桂小五郎をあげています。
ふたりの出会いは、松下村塾であったとも、藩校・明倫館であったといわれています。
ただ、高杉家と和田家は歩いても5分とかからない近所であったことから、実は面識があったとも考えられます。
病床で正妻と愛人の板挟みとなった高杉晋作が、桂小五郎宛てに、その状況を愚痴ったの手紙を送っています。(手紙は現存)
そんなプライベートなことも相談できるほど親しい関係だったことが伺えます。
当時の区画そのままの萩城下では、明治維新の中心人物となる高杉晋作、伊藤俊輔、桂小五郎とがそれぞれ生活をし、もしかしたらあいさつをかわしたり、悪だくみをして遊んだり、一緒に地元のイベントに参加したりして、仲良くなっていたのかもしれません。
萩の城下町を訪れるときは、そんな想像をしながら歩くのも楽しいかもしれませんね。