長州藩の萩とおはぎのはぎをかけて。長州藩の36万石から36文で。
36文で販売されたおはぎは、当時の京都市中で大変な人気となりました。
この「長州おはぎ」は禁門の変以降、藩存続の危機に立たされている長州藩を、京都市民が陰ながら応援するためのものでした。
どうも、京都の人たちにとっては、長州藩への印象が良かったようです。
長州おはぎの売り上げは上々でしたが、劣勢を強いられる長州藩の状況は変わりませんでした。
遠からず訪れるであろう、長州征伐に藩は大きく揺れていました。
そこで今回は、この第一次・第二次長州征伐について、わかりやすくご紹介いたします。
長州征伐の原因になった禁門の変とは?
1863年8月18日。
「八月十八日の政変」により尊王攘夷派が京都から追放されました。
そして翌年、7月18日。
長州征伐の発端となった禁門の変が勃発。
尊攘派公家の復権や長州藩主父子の冤罪を晴らすことなどを目的に、長州藩が朝廷に対して無実を訴えようとし、御所の蛤御門の付近で激しい戦闘とりました。
しかし、これにより復権どころか朝廷の敵とみなされた長州藩。
禁門の変から三日後には長州征伐令が下されました。
こうして、日本中が「敵」となった長州藩に侵攻することになったのです。
この非常事態に、迎え撃つための武器さえ調達できない長州藩は、実際のところ成すすべもなく、意見もまとまらないまま右往左往しました。
戦禍を避けた第一次長州征伐
長州征伐勅命によって厳しい状況に追い込まれている長州藩でしたが、現実的に窮地へ追い込んでいるのはイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四カ国連合艦隊という存在でした。
1863年5月に関門海峡を通過するアメリカ商船を砲撃し、攘夷を決行したことで、激しい報復を受けていたのです。
長州藩は日本中だけでなく、世界の大国まで敵に回したということです。
藩存続の危機を前に、長州藩は「武装恭順」を掲げる正義派と、「謝罪恭順」を掲げる俗論派に分かれ、激しく対立しました。
実際、正義派の井上薫が襲撃され瀕死の重傷に陥いりましたし、同じく正義派だった伊藤俊輔(博文)も逃亡を余儀なくされました。
その後、長州征伐の総督・徳川義勝、参謀・西郷隆盛の働きかけにより、長州藩は謝罪恭順の姿勢で落ち着き、なんとか戦争は避けられました。
薩長同盟から第二次長州征伐へ
第一次長州征伐の謝罪恭順では、西郷隆盛が文字通り身を粉にして方々に掛け合ったことで戦闘が回避されました。
この西郷隆盛の行動が、1866年の薩長同盟への布石となりました。
紆余曲折あったものの、坂本龍馬が仲介役となり、薩摩藩代表の西郷隆盛と、長州藩代表の桂小五郎との間に「薩長同盟」が結ばれました。
第一次長州征伐による制裁で、長州藩では武器の調達が困難でした。
しかし、薩長同盟が結ばれたことで、薩摩から大量の武器が運び込まれます。
そのため、第二次長州征伐を見越して、長州藩では着実に軍備が整えられていきました。
1866年5月下旬。
長州藩が軍備を整えていることが露呈し、江戸幕府は朝廷による許可のもと軍勢を集めて長州へ侵攻します。
このとき、幕府軍は総勢15万。対する長州藩はわずか3500。
圧倒的な戦力差があるかに見えましたが、最新鋭の軍備を備えた長州勢力は、幕府軍を退けることに成功しました。
この戦いは地元では四境戦争といわれ、関門海峡の小倉口、瀬戸内海の大島口、安芸広島藩に接する芸州口、浜田藩(現在の島根県)に接する石州口の四か所で激しい戦闘が繰り広げられた記録が現在にも残っています。
その後、小倉城が陥落したことをきっかけに、表向きは大坂城で病没した将軍・徳川家茂の喪に服すとして、幕府代表勝海舟によって長州藩との講和が結ばれ、ようやく第一次・第二次長州征伐は終結しました。
第一次長州征伐では謝罪恭順するものの、薩長同盟へのきっかけとなりました。
第二次長州征伐では江戸幕府に勝利したことで、倒幕の機運が高まりました。
こうして、長州藩は先陣を切って反幕府派を指揮することとなり、明治維新に大きく貢献しました。