はじめに
前田利家・まつ夫妻の間に生まれた豪姫。
彼女はすぐに豊臣秀吉・おね夫妻の養女となります。
これは子どもがいない秀吉夫婦が、子宝に恵まれている利家に頼んで、豪姫が生まれる前から決められていたことでした。
秀吉は豪姫のことをとても可愛がり、豪姫はまさに“豊臣のプリンセス”となりましたが……。
生まれたときから溺愛されて育つ
生まれてすぐ、豪姫を懐に抱いて帰った秀吉夫妻。
豪姫は結婚する頃まで実の親子だと信じていたというので、彼女がどれほど大事に育てられたのか分かりますね。
秀吉は戦場にいる時すら豪姫のことが気にかかり、陣中から手紙を送るほどでした。
なので、彼が豪姫に「とびっきりの良い男を婿にしてやろう!」と張り切ったのも、当然と言っていいでしょう。
そして豪姫は15歳の時、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)のもとに嫁ぐことになりました。
神様でも許さない!秀吉の徹底ぶり
秀吉の豪姫への溺愛ぶりは、相当なものでした。
妻・おねに送った手紙には、「豪が男だったら関白にした」と綴ってあります。
「おねよりも高い身分にしたい」という記述も残っています。
さらに凄まじいエピソードもあります。
結婚し、子どもを生んだ豪姫でしたが、産後の体調が良くありませんでした。
その原因が「狐が憑いたせいだ」と診断されると、秀吉は烈火のごとく怒ります。
そして、稲荷大明神に「豪に取り憑く狐を退散させなければ、日本中の狐を狩ってやるぞ!!」と脅迫状(!)を送りつけました。
プリンセスの最期
豪姫の夫になった秀家も、秀吉にとても可愛がられ、期待されていた人でした。
朝鮮出兵の後には、豊臣五大老に選ばれ、57万4000石の大大名にまでなったのです。
豪姫は、秀吉にめいっぱい可愛がられ、順風満帆な人生を歩んでいましたが、秀吉の死によって、運命は大きく変わってしまいます。
秀吉が亡くなり起こった関ヶ原の戦いに、夫・秀家は西軍の主力と参加します。
しかし、西軍は敗北……。
戦後、豪姫は大坂で秀家と再会しますが、薩摩に逃れる秀家とはすぐに離れることに……。
それから数年後、秀家は幕府に引き渡され、豪姫との間に生まれた二人の息子と共に、八丈島へ配流されることが決まります。
豪姫も一緒に行くことを望みましたが、許されませんでした。
そしてこれ以降は、貞姫、富利姫の二人を連れ、前田家を頼って加賀(現在の石川県)で過ごすことになります。
豪姫は夫と息子たちが許されることを信じて待ちますが、それが叶うことはなく、1634年に61歳で亡くなりました。
現在も、前田家の墓所に葬られ、実父・利家、実母・まつの側で眠っています。