はじめに
藤原宗子(池禅尼)は藤原宗兼の娘で、平清盛の父・忠盛の後妻です。
平清盛は忠盛と前妻との間にできた子どもなので、藤原宗子は清盛の育ての母親ということになります。
彼女は、平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命を清盛に頼み、その命を救いました。
しかし、このことで逆に平家はその頼朝に滅ぼされてしまいます。
当時、清盛は敵の息子である頼朝の命を助けることを聞き入れませんでした。
しかし、どういうわけか最後には受け入れてしまいます。
そこには、藤原宗子の過去が関係していました。
重仁親王の乳母として
1140年。
藤原宗子は崇徳天皇の息子・重仁親王の乳母に選ばれます。
そのことがきっかけで、鳥羽上皇の妻である藤原得子とも繋がりを持つようになります。(得子が重仁親王を養子に迎え入れていたため)
宗子は重仁親王の乳母という立場で、政治の中枢と平家とを繋げることになり、それによって得た情報で平家を率いる清盛に重要なアドバイスを与えました。
清盛へのアドバイス
1156年に起きた保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇が、それぞれ武士を味方に引き込んで戦いました。
この時、藤原宗子(池禅尼)は清盛に「後白河天皇に味方するべきです」とアドバイスします。
これに従った結果、清盛は勝者になることができました。
平清盛は、育ててもらっただけでなく、出世のための重要な情報ももらったことで、藤原宗子に頭が上がらなくなりました。
そして、1160年。
源義朝との平治の乱が起きた時、運命の分かれ目を迎えることになります……。
頼朝の命を救い・・・
義朝を打ち破った清盛は、捉えた義朝の息子・頼朝を殺してしまおうとします。
残酷なようですが、頼朝を生かしておけば、成長した時にきっと平家に戦いを挑んでくるだろうと、清盛は分かっていたのです。
藤原宗子はまだ14歳だった頼朝を可哀想に思って、「殺さずに生かしてあげて」と清盛に頼みます。
清盛はもちろん聞き入れようとはしませんでしたが、恩ある藤原宗子が「それなら干死に(餓死)します」と言うので折れました。
藤原宗子のこの優しさに生かされた頼朝が、この数年後に平家打倒の兵を挙げ、新しい時代を築くことになっていきます。
平家滅亡のその後
成長し、平家を滅ぼした頼朝は、清盛と同じこと(平氏の血筋の子を生かすこと)はしませんでした。
もし生かしておけば、その子が大人になった時、自分と同じ道を歩むだろうと思ったからです。
しかし、頼朝は平頼盛という人物の命を助けました。
彼は、藤原宗子が忠盛との間に産んだ息子です。
この時には藤原宗子は亡くなっていましたが、頼朝は藤原宗子に命を救われたので、頼盛を生かすことで恩を返そうとしたのでしょう。