龍宮城を潜り抜け、赤間神宮の本殿から振り返ると、そこには関門海峡が広がっています。
貨物船や客船が行き交う穏やかな関門海峡は、平安時代末期に、源平それぞれの船が入り乱れ激しい戦闘となった場所でもあります。
壇ノ浦の戦いで源氏に追い詰められた平家一門は、女性から子供まで冷たい海へと飛び込んでいきました。
その中には、幼い安徳天皇もふくまれていました。
安徳天皇は二位尼に抱かれて海底の龍宮城へと向かったのです。
こうして、幼帝の命ともども源平の合戦に終止符が打たれ、平家は滅亡しました。
今回は「壇ノ浦の戦い」をクローズアップしてご紹介します。
平家の絶頂期から壇ノ浦の戦いへ
平治の乱で圧倒的な存在感をみせつけた平清盛は、後白河法皇とも親密な関係となり太政大臣の地位を手に入れることに成功します。
平家一門は日宋貿易でも巨額の富を得たばかりか、清盛の娘・徳子が高倉天皇と結婚、さらに後の安徳天皇を出産したことで絶頂期を迎えました。
ですが、1180年――
打倒平家を掲げた以仁王が討伐を命じたことで、源頼朝が挙兵します。
源頼朝には、平治の乱で実父・源義朝が敗れていることから、並々ならぬ平家への恨みがあったとみられています。
以仁王の挙兵からほどなく平清盛が病死。
大黒柱を失った平家は倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦いで敗北。
壇ノ浦の戦いを迎えることになります。
平家水軍が源氏を追い詰めるが…
当時、瀬戸内海全域は平家水軍によって支配されていました。
最新鋭の艦隊に乗り込む水夫たちの操船技術も高く、まさに日本最強の水軍でした。
壇ノ浦の戦いでは、平家が誇る山鹿党、松浦党、菊池党など、1000艘が関門海峡で待ち構えていました。
これに対し、攻め入る源氏は、渡邊水軍、熊野水軍、伊予水軍などが集結し、およそ3000艘という戦力です。
平家物語に記載がみられる船数からすると、源氏の戦力が圧倒的に上回っているようにもみえます。
ですが、寄せ集めた源氏水軍は小舟ばかりであるということ、平家水軍ほどの操舵スキルがないことから、実際のところ戦力は下回っていたのではないかと考えられています。
平家水軍を率いるのは、猛将と名高い平知盛です。
源氏の源義経が自ら出撃すると知るや、自らも迎え撃つべく彦島を出撃します。
壇ノ浦の戦いの口火が切って落とされると、関門海峡特有の潮流を知り尽くしていた平家水軍が海戦の主導権を握りました。
ですが、どういうわけか平家水軍は劣勢に転じてしまいます。
これには諸説あり、関門海峡の潮流が源氏に味方した、あるいは源頼朝が当時ご法度だった船の漕ぎ手を矢で射るように命じたためともいわれています。
盛者必衰のことわり…平家滅亡へ
壇ノ浦には都から落ち延びた安徳天皇や清盛の妻・二位尼、それから女官たちも同行していました。
平家を率いていた平知盛より、これ以上は勝ち目がないことを知らされた二位尼は、安徳天皇と三種の神器を抱きかかえて船縁に立ちます。
何も知らない安徳天皇のどこに行くの?という問いかけに、「海底にも都はあるのです」と答えると、二位尼は入水したのです。
これに、安徳天皇に殉じるべく、女官たちも次々と海へと身を投げました。
すでに安徳天皇に殉じることを決意していた平知盛は、海面へ浮かんで源氏によって辱めを受けることがないよう、鎧を二領も着込んでから飛び込みました。
こうして、幼い安徳天皇までをも犠牲にし、壇ノ浦の戦いが終結したのでした。
赤間神宮の水天門は、安徳天皇と二位尼のエピソードから、龍宮城をイメージしてデザインされたといわれています。
「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」
ここには壇ノ浦の戦いで命を落とした安徳天皇が祀られています。
産まれたときから政争に巻き込まれ、命さえ落とした幼帝も、ようやく龍宮城に辿り着き、幸せになることができたのかもしれません。