巌流島には「決闘の聖地」なるキャッチフレーズがついています。
巌流島の決闘が繰り広げられたことにちなんでですが、当時は船島と呼ばれていました。
現在でも正式名称は「船島」で、住所も山口県下関市大字彦島字船島です。
1612年4月13日。
宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘し宮本武蔵が勝利しますが、敗北した佐々木小次郎という人物については、ほとんど知られていません。
そこで今回は、謎に包まれた佐々木小次郎の生涯を追います。
佐々木小次郎は巌流島の決闘まで何をしていた?
巌流島の決闘では、宮本武蔵が20代の青年であったのに対し、佐々木小次郎はすでに60歳を超えていたともいわれています。
しかし、佐々木小次郎がいつ頃の生まれなのかは判然としていません。少ない資料をもとにしたところ、およそ1560~1590年のうちに生まれているとみられています。
出身地にも諸説あり、豊前国(現在の福岡県)の豪族・佐々木氏の生まれであるとも、越前国(現在の福井県)であるともいわれています。
戦国時代も終焉に向かっていたころに安芸国(現在の広島県)をおさめる毛利氏に仕えていたことは分かっていますが、江戸時代を迎えて太平の世が訪れると、ほどなく剣術修行を目的に諸国を渡り歩きます。
やがて、西国第一の剣豪とまで呼びならわされるようにった佐々木小次郎。
小倉藩初代藩主である細川忠興のもと剣術指南役として家臣たちに剣術を教えるようになり、
剣客として頭角をみせていた宮本武蔵との決闘が取り決められます。
巌流島の決闘で物干し竿を振るう
巌流島の決闘はあまりにも有名ですが、どうして決闘することになったのか、その経緯はよく知られていません。
ただ一説には、決闘の発端が、それぞれの弟子が揉めたことにあったといわれています。
弟子達は「どちらの師匠が強いのか」と口論になり、決闘をしなければ収集がつかなくなってしまったのです。
そのため、イメージとは裏腹に、もともとこのふたりにはそれほど戦意はなかったとみられます。
刻限に巌流島に上陸した佐々木小次郎でしたが、宮本武蔵に待たされてしまい、その苛立ちから決闘では抜き払った鞘を海へ投げ捨てます。
「小次郎敗れたり。勝つ者が何ゆえに鞘を捨てるか。」という宮本武蔵のセリフも有名でしょう。
このとき、佐々木小次郎が構えたのが「備前長船長光」という刀でした。
背丈ほどの長さがあることから、物干し竿ともいわれています。巌流島の宮本武蔵と佐々木小次郎の像をみてみると、確かに長刀を構えているのがわかります。
そして、「電光なお遅きがごとし」と称される宮本武蔵の一撃に佐々木小次郎は討たれました。
宮本武蔵は去り際、剣豪・佐々木小次郎を称えて一礼したといわれています。
しかし、息を吹き返した佐々木小次郎を、巌流島に上陸していた宮本武蔵の弟子たちが袋叩きにしたという資料も残されています。
このあたりは分からないことばかりなので、想像にお任せします。
巌流島は船島だった
巌流島の決戦を取り決めたときも、それぞれ「それでは、決闘は船島で」と約束していたことでしょう。
船島というのが島の名称であって、当時「巌流島」と呼ぶ人はいなかったからです。
この巌流島の「巌流」とは、佐々木小次郎が興した剣術の流派です。
いわゆる「燕返し」も巌流の秘剣になります。
「巌流島」の名前は、地元のひとたちが打ち破れた佐々木小次郎をしのんで、つけられたそうです。
巌流島の決戦後は無人島となっていましたが、江戸時代後期、下関に滞在していた坂本龍馬が、妻のお龍をともなって上陸し、ふたりで花火を楽しんだという逸話も残っています。
現在でも、巌流島の決闘に想いを馳せながら、佐々木小次郎が鞘を投げ捨てた海岸沿いを散策するひとの姿が見られます。